越後の闘牛
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)偶々《たまたま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)観察|斟酌《しんしゃく》して
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(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]
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一
越後と上州の国境をなす谷川岳と茂倉岳を結ぶ背面の渓谷に源を発し、八海山と越後駒ヶ岳の裾を北流して新潟県北魚沼郡川口村で信濃川に合する魚野川の川鮎は、近年にわかに都会人の食趣に、その美旨の味品が注目されるようになった。
私は、やはり今年も上旬から、北魚沼郡小出町の地先を流れる魚野川の清冽を慕って、炎暑下の鮎の友釣りに、健康の増進を志していったのであったが、偶々《たまたま》長岡の友人若月文雄氏がわが旅宿へ訪ねてきて、いまは日本唯一となった古志郡竹沢村の、闘牛を見物に行こうではないかと、誘うのである。
越後の闘牛について若月氏の説くところをきくと、これはいつの世にはじまったのであるか詳しい歴史は分からない。しかし、既に数百年の長い間、この国の古志村郷に伝わってきた行事であるといわれている。文献にも乏しく、ただ曲亭馬琴が文化十一年から天保十二年にかけ二十八年間の長きにわたって書いた南総里見八犬伝の第七十三回と四回とに、詳しく紹介してあるが、その他には殆ど文献らしい文献は見当たらない。
文化から天保といえば、今から百二、三十年以前のことであるが、八犬伝を読んでいると闘牛行事のしきたりや村民の風俗が、いまと全く変わりがないのに気がつく。文化天保のころが、この闘牛全盛の時代であったように想像されるから、闘牛の歴史は馬琴時代よりもさらに古い発生であるのではあるまいか。
馬琴は、自ら古志の国へ旅して二十村郷の闘牛を見物したのではない、と、自ら八犬伝のうちに付記している。これは、随筆北越雪譜の著者南魚沼郡塩沢の里長《さとおさ》鈴木牧之から庚辰三月二十五日に伝聞した実況で、牧之は村政や筆硯多忙のために、雪譜中へ闘牛記を収めることができなかったから自分が代わって八犬伝中に記したのだ。と、馬琴は断わっている。
日本闘牛は、越後のほかに土佐と能登にあったのであるけれど、いまは亡びてしまって見ること
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