沢村の徳蔵牛だ。これは純黒の毛なみ、恰も黒|天鵞絨《びろうど》のように艶々しく光り、背にまたがればつるりと辷りはせぬかと思うほど肌が磨いてある。肩の肉も、尻の肉も、張りきって波打ち、横綱力士の便腹《べんぷく》の如しといいたいが横綱の腹を五つや六つ持ってきたところで、到底及ぶまい。
意地汚い話だけれど、あの肉塊が一つあったなら、幾十人前のすき焼きができるだろう。時節柄、私は長い間随分肉類に飢えてきているなど、ひとりでに妙な考えが頭に浮かんで、思わず唾液を舌に絡ませた。徳蔵牛は、二百貫を越えているだろう。
三
東西から出た飼主に鼻面をとられたまま、順に場内を一巡して、そして最後に場の中央で顔を合わせた。ところで、牛は既に場内へ牽き入れられた時、猛然と闘志を燃やしているのだ。顔を合わせるやその瞬間、丸い大きな両眼を豁《かっ》と開いて、黒い瞳を上険の近くへ吊りあげて、相手を睨《にら》めた。
その途端に、わが牛の鼻を抑えていた飼主は呼吸をはかって互いに鼻糜《はなげ》を抜いた。鼻糜を抜くや戛然《かつぜん》たる響きが見物席へ伝わった。火を発するのではないかと思った。角と角と力相|搏《う》ったのだ。
一秒、二秒、三秒。角と角が組んだ。牛は、渾身の力を角にこめて押し合った。筋肉が、躍動する。後ろへ、踏ん張った後脚の蹄《ひずめ》が、土中深くめり込まる。
見物人は、片唾を呑んだ。牛方の青年は、両牛の前後左右を取り巻いて、イヤイー、イヤイー、という掛け声をかけて牛に声援する。六秒、七秒。闘いは、酣《たけなわ》となった。
押した押した。黒が押した。崖も崩れんばかり見物人の山が動揺する。なんと呼んで叫ぶのであるか、見物人は手をあげ口を開いて喚《わめ》く。
だつ、だつ、だつ。押された赤牛は、西の柵の近くまで追い込まれようとしたとき、あっ、踏み止まった踏み止まった。押し返した押し返した。赤は、死力を尽くして押し返し、場の中央から少し北方寄りのところへ、立って組んだ。
二つの肉団は、泰山の如く動かない。人々は結局引き分けかな、と、予想していた。
十秒、十五秒。俄然、赤は角をはずした。そして、黒の頸筋の横へまわって、直角に頸筋へ両の角を立てた。その、早業。
赤は、両の角を敵の横頸へ立てると、なんの猶予もなく、そのまま電撃の疾《はや》さをもって、押し立て押し立て、二百余貫の巨
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