わが童心
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山女魚《やまめ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)草|葺《ぶき》
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 二、三日前、紀州熊野の山奥に住む旧友から、久し振りに手紙がきた。
 ――拝啓、承り候えば、貴下も今回、故郷上州へ転住帰農遊ばされ候由、時節柄よき才覚と存じ上申候。
 小生もここ熊野なる故郷の山中へ疎開転居致し候てより、はや一年の歳月を過ごし申候。永き年月、都会に住み馴れたる者が、故山の杜邑に移りきては、水当たりもありやせん、人の心の激しさに触れもせん、とはじめのほどはいろいろの危惧を催し候処、それは、ほんとうの杞憂に過ぎざりしを感じ居り申候。
 妻も子も、裏山の峡間より導く清水にて炊く飯に食べしみ、日に日に健康を増進し来り候、このごろ初夏が訪れ候てよりは、食膳を飾る莢碗豆、春蒔白菜、亀戸大根などの鮮漿に舌鼓をうち申し、殊に時たま珍肴として、十津川と北山川と合流して熊野川となるあたりの渓谷に釣り糸を垂れ、獲たる山女魚《やまめ》やはやに味覚を驚かせ候が、まれに美禄の配給にめぐり合い申せば僅かなる一盞に陶然として、わが身の生き甲斐を、しみじみと思い入り申侯。
 対岸は伊勢の山々、こちらは紀伊の縣崖。その間に散在する水田や山畠は掌の如く小さく候えども、これが小生の農園に御座候、既に鍬執る小生の腕には肉瘤の盛り上がるを見申し、嶺や麓の新緑を眺めながら、これからは一層増産に励まんかと、覚悟致し居り候。
 末筆ながら御報告申上げたきは、山菜と青果の栄養に育つ、わが子等の姿に御座候、未だ九歳と十一歳の幼年に候え共、男の児はやはり男の児に御座候、小生に似て、はや膚肉逞しく朝夕学校の余暇には、親に従い棧道に薪を背負い、段畠に耕土を掘り返し居り申候。この子等に腹の底まで故郷の素朴なる自然に親しませ、育ち上ぐるが小生の生涯の楽しみに有之候。
 わが村は、二千六百有余年前、神武天皇大和国御討伐のみぎりの、御征路に候、一日も早く子供等を成人させ、神武天皇の御心に、従軍いたさせたく、大切にいつくしみ居り候、それに引き換え、小生は月日と共に老境を辿り、昔の俤は消え去り、まことに心細き態に候。阿阿。
 まずは御無沙汰の御わびまで。敬具。

 私はこの旧友の久し振りの手紙を、二度三度目誦した。友は南紀熊野の故郷に帰り住み、大自然の懐ろに抱かれ、心豊かに幸福に暮らしているらしい。
 人間にとって、故郷ほど肌ざわりの滑らかな里はないのである。しかも友は、二人の子供の育成に、眼も鼻もなき喜びに耽っている状が書翰の文字の間に、彷彿として現われている。
 子供と故郷のうるわしき野山、子供と鮮やかな草樹を着た大自然。
 読み終えて、巻くともなしに手紙を掌に持ったまま、私の冥想は徐《おもむろ》に、さまざまの方へ向かっていった。
 そして最後に、なぜ日本人は純情であろう、かということが頭にうかんだ。窓外に、五月の緑風が、輝く若葉を繙いていく。
 日本人の、純情を培ったものには、数多い素因があるであろう。
 しかし、私が最も有力なる素因として感じているものに、国土の美しき風景、山川草木がある。つまり、潤麗にして、豊艶なるわが国の風景が、人々を純情に育てきたったのであろう。さらにそこへ一つ、郷党の親愛こまやかなる情合いをも、素因として加えたい。
 この美しき国土を愛すればこそ、我々日本人は清いのである。晴温なる空の色、かぐわしき野の匂い、清楚な水の流れ、情味の芳醇な山の姿。どうして、こんないい国を亡ぼすことができよう。人々の抱くその感懐が伝統の強き情操に育まれきたったであろうと思う。
 わが国土の「美」を決して他人に、蹂躙《じゅうりん》させまい。これなのだ。これが、日本人の力の泉であった。
 人は、誰でも故郷を持つ、誰でも故郷に対する愛着の強さは、言葉ではいい現わせぬものがある。日本の国土全体を愛する執念と共に、我々は醇美なる故郷の自然に陶酔しているのである。されば、我々は故郷の山川草木にも、強く育てられてきた。
 山国に生まれ育った人も、平野に生まれ育った人も、都会に生まれ育った人も、そこは各々の故郷である。私は、江戸時代から先祖代々七、八代も続き、田舎に故郷を持たぬ幾人かの友を持っている。その一人に、将棋の名人木村義雄君があるが、日ごろ彼がいうに、自分は草原山川に囲まれた故郷を持たぬ。
 だから、田舎の生活の情味は知らない。そこで、どこが故郷かといえば、やはり東京が故郷である。自分は、本所の割下水で生まれた。つまり、割下水が故郷だ。引き潮時に、掘割の真っ黒い水の底から、ぶつぶつと沸き立つ、あの溝の臭みが故郷の匂いである。
 ときどき散歩に行く、丸の内のお堀端の柳が水に映る姿も、故郷の彩である。そんなわけでほんとうに自分は東京の朝な、夕なに愛着を感ずる。いや、愛着どころではない。自分は、東京と切っても切れぬのだ。だから、親戚や友人があちこちへ疎開転住をするけれど、自分は東京から草鞋《わらじ》をはく気持ちになれない。
 いつぞや、木村君はこう私に述懐したことがあった。
 木村君としてみれば、千代田城の遠霞、水郷である本所あたりの下町情調は、臍の緒切ってからの環境であろう。ちょうど我々が、春風が訪れても、木枯《こがらし》が吹きすさんでも、朝起きれば赤城、榛名の姿に接し、大利根の瀬音に耳を傾けつつ育ったのと同じであろう。
 我々からみれば、東京はまことに殺風景のところだ。私も永い年月東京住まいをしたけど、なんとなく潤いある情味に乏しい。でも、木村君に取ってはそこが唯一無二の故郷なのだ。そして、無上の愛着を感じているという。
 木村名人の気持ちは、よく分かる。
 それを想うと、木村君に比べて、なんと我々は恵まれた土地に生を享けたことであろう。眼をやれば、千々に重なる山の容。青き野原。一歩すれば、足下に流るる清冽な水。花弁重たき菜穀の田畑。さらに接するにわが生まれた里人の醇朴な温情。
 国破れて、山河ありとは支那の言葉だ。わが日本では、飽くまで国栄え、山河朗々である。万一、国亡ぶれば、山河もない。
 死に徹するまで、郷土の清婉《せいえん》なる風景を護るわが国民である。それが、日本の伝統だ。わが伝統は、国民を清からしめた。我々は、無言の間に、天命かけてわが美しき風景を護っているのである。山、河、野は我々の心である。
 ああ上州よ、上州よ、赤城よ、榛名よ、利根川よ、われは汝と生死を共にして、行くところまで行くであろう。
 私は少年の頃、東京へ転学した。顧みれば、明治三十八年五月十四日の真昼のことである。我々四年生が主謀者となって、前橋中学の生徒控室で全校生徒の同盟休校を決行した。折りしも三十有余年前の五月半ばの校庭には、葉桜と欅《けやき》の若葉に、初夏には早い青嵐が吹いていた。
 結果は、諭旨退学である。前貴族院議員本間千代吉、高橋ドリコノ博士、元アルゼンチン公使内山岩太郎らをはじめとして、四十三名の若き主謀者たちは、笈《おい》を負うて東京の私立中学の補欠募集に応ずるため、ぽつぽつと上京した。私も、その一人である。
 閑話休題。ちょっと筆が横路にそれるが、同盟休校決行の趣旨のうちに、お笑い草があるから、お聴きしていただきたい。
 当時の校長は丘さんといって、鹿児島県出身の厳格な教育家であった。その頃、我々学生は昼の弁当を教室内で食べる規則となっていたのであるが正午の時間がくると学生らは、その規則を守らないで弁当箱を校庭へ提げ出し、さらに校庭を囲んだ土手を越えて利根の河原へ繰り出したものだ。
 そして、玉石の上へ腰を下ろし、激流の白い泡を前にし右に赤城、左に榛名を、七分三分に眺めながら、悠々と箸を運んだのであった。学校当局は、それを見て怪《け》しからんという思し召しであった。
 いつの間にか校庭の土手の上は、木の柵で囲まれてしまった。ところで同盟休校の決議文のうちに、校長の反省を求める趣旨で「我々学生は牛に非ず」という一項があったと記憶する。
 そんな稚い学生であるが、東京へ出るよりほかに途はない。だが、同盟休校をたくらんだ主謀者の腹の奥には、日ごろ田舎の中学にいるのは時代遅れだ。東京の空気が吸いたい。けれどそんな希望を父兄に申し込んだところで、一喝を喰うだけであるのは分かりきっている。だから、同盟休校をやれば退学処分にあう。退学処分にあえば、父兄もしょうことなしに我々を東京の学校へ送るであろう。
 こんな三段飛びの秘策が密にたくらまれてあったのは否まれない。そこで、うまうまと目的を達したわけになった。
 上京二、三ヵ月は、私立学校補欠募集を目ざし、己が面目かけて勉強していたために故郷のことなど、てんで頭になかったけれど、入学試験に及第して、ほっとして下宿屋の四畳半に胡座《あぐら》をかくと、故郷の空がそろそろと頭にうかぶ。
 私は、勉強の方は甚だ不得手で、神田にある東京中学校と、大成中学校を受けたが二つとも落第。最後に、本郷駒込の郁文中学を受けて辛うじて四年の二学期に入学を許された。その試験は、八月の末か九月の初旬で、飛白《かすり》の単衣《ひとえ》に、朝夕の秋風が忍び寄る頃であった。
 田端の高台にある下宿屋に移り、駒込の学校へ通う路すがらの田の畦に蟋蟀《こおろぎ》が唄う秋の詩をきくともなしに耳にする候になると、少年のわが胸に、淡い望郷の念が動いてきた。それが、日をへるに随って、恋々となったのである。
 そのころ本郷の高台と田端道観山を隔てる谷には、黄色く稔った稲田が遠く長く続いていて南方を眺めると根津の権現さままで、見通せたのである。私は、夕方早く学校から帰ってくると、田端の高台の一番高いところにある大根畑の傍らに佇んで、西北の遠い空を望み凝した。
 それは、赤城と榛名の姿を探し求めたのである。しかしながら、わが求むる赤城と榛名は、いつも秋霞の奥の奥に低く塗りこめられて、つれなくも私の視界に映らない。ただ近く秩父の山々が重畳と紫紺の色に連なり、山脈が尽きるあたりの野の果てに頂をちょんぼり白く染めた富士山が立っていた。
 大根畑の傍らへ、朝も夕も通ったが、とうとう故郷の山を望み得なかった。もう堪らない。
 一度、父母の顔を見に帰ることにきめた。ごとごとと汽車が走った。桶川駅を過ぎたあたりまでくると、汽車の窓から一心に西北の空を眺める私の眼に、赤城と榛名の低く淡く地平線に横たわる容が映るのであった。私は、瞳を凝した。頭がうっとりした。
 恰《あたか》も、冬の夜に、甘酒を一杯頂戴して、からだに温《ぬく》もりを覚えたほどの、想いを催したのである。私は、利根川の西岸上野国東村大字上新田に生まれ育った。よちよち歩く頃から東の田圃へ出れば赤城山、西の田圃へ出れば榛名山、北方の空に春がきても夏がきても四季の朝夕楽しき折りも、悲しき折りも、この二つの山の温容を眺めながら育ってきた。
 二つの山は、私に取って豊艶な母の乳房にも譬うのである。赤城は右の乳房。榛名は左の乳房。いま、私のまぶたの裏に、故郷の乳房が映ったのだ、泪《なみだ》が漂う。
 身も心も、大自然に溶け込んでしまいたい想いだ。山の懐ろへ抱かれて、すやすや眠りたい想いだ。汽車の窓にうっとりとしているわが胸に幼き腕に笊を抱えて、田圃の小川に小鮒を漁った頃から、ついこの初夏に同盟休校をやって、校門を突き出されるまでの、さまざまの想い出が風景映画のように、区切りもなく影を描いてゆく。
 それからもう、四十幾年を過ぎ、私は老境を迎えて、白髪の親爺となった。しかし故郷を恋う心は一層こまやかになってきた。殊に、両親を亡くしてからというものは、一入《ひとしお》、山の姿がなつかしい。
 私はこのたび、幾十年振りかで、父母のいない生まれ故郷の上新田へ帰ってきた。住まいは昔のままの草|葺《ぶき》の朽ちた百姓家である。裏の籔にも、昔のままの竹が伸びていた。村の、あの家この家も趣を変えない。かつて青年であった村人は、皺の数を増し、髪を白くしているけれど、当時の俤を失わぬ。
 野路に遊
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