ぶ子供らを見ても亡き何兵衛、何蔵に瓜二つの子や孫である。四十年前菱形であった麦田は、いまもなお昔のままの菱形であった。
 なきは、わが父母だけである。
 だが、藍青の裾を長くひいた山々は、過ぎし日の温容そのままで、わが亡き父母に代わって在りし日の想い出を、私に物語るのではないか。
 なんでこんなよい日本を人手に渡せよう。なんで、こんなやさしい上州へ、他人の侵入を許せよう。
 その想いは、私一人ばかりが持っているのではない。大和民族として生をうけたものならば誰でも同じである。
 慈母の如く、豊情豊彩のわが山川草木に、他人の一指も触れさせないために、決死斬込隊も出た。特攻肉弾の勇士も出た。つまり言い換えれば、決死隊も特攻隊も、わが山川草木が生んだことになるであろう。
 我々がわが上州に、尽きぬ愛敬と慕情を捧げると同じに越後の人は越後に、信州の人は信州に、紀州の人は紀州に、それぞれの土に血の脈を感じているのである。母国という言葉は、誰が作ったのか、さればこそ、大和民族のすべてが清いのだ。
 さりながら私は、わが上毛の国を佳国中の佳国であると思っている。私は若い時から旅行が好きで、釣り竿一条を携えて、日本のあちこちを北へ南へ歩き回ってきた。昨年は夏から晩秋へかけて満州の東西南北を釣りめぐり、外蒙古境まで魚影を慕って旅したほどである。
 釣りはさることながら、私は旅先でそこの風景に親しむのが好きである。旅先の雲のたたずまい、山の姿、草木の彩水の趣。それぞれの特色を見のがすまいとしてきた。
 いずれの土地も、それぞれ秀でた風景に恵まれて、自然は温かく豊かに里人を抱いていた。そして私は、その土地の人情にも接した。食べものの味も、試みた。
 けれど、東京は言わずもがな、どこの国でも、わが上州ほどよい国はない。と、感じてきたのである。取り分け私は生まれた上新田の眺めがよい。
 試みに、上新田の田圃へ出て、東西南北の風姿に一瞥を与えようか。
 さて東の空へまず手を翳《かざ》そう[#「翳《かざ》そう」は底本では「翳《かざ》さう」]。山田郡と思える方の地平線から、低く起伏した浅緑の峰々は桐生市の裏山から野州の足利、安蘇、下都賀郡の方へ連なる一連の山脈である。真夏がくると朝の四時半には、もう敦光《とんこう》が鮮やかに、きらめくのである。そこに東雲《しののめ》のたなびくころ、幼い私は父に連れられて、利根の流れへ鮎釣りに行った。利根の崖に、楢《なら》の若葉が天宝銭ほどの大きさに、育っていたのである。
 この山脈の上にはもう五月に入ると、いつも鈍い銀色の、雲の峰が立つ。そして積乱雲は、夕|陽《ひ》を映し受けて、緋布のように紅く輝くのを、私は子供の時から眺めてきた。しかしこの雲の峰に、決して上州方面へは雷雨を齎《もたら》さない。いつも、東の空へ長く倒れる。多分、下野国の耕野を白雨に霑《うるお》すことであろう。
 それから東北に眼を送ると足尾の連山が、赤城の長い青い裾から、鋸の歯のように抜けだしている。足尾山は、中宮祠湖畔の二荒山や、奥日光の峻峰を掩い隠しているけれど、わが上新田から一里半ばかり南方の玉村町近くへ行くと赤城と足尾連山の峡から奥白根の高い雪嶺が、遙かに銀白色の光を放っているのを眺め得よう。
 足尾山の左は、わが赤城だ。私の村からは、真北よりも東に位置して、前橋の街を裾の間へ掻い込まんばかりにして聳えている。
 赤城について説明するのは、いらぬことであろう。上州人は赤城山について、知り抜いている。しかし、わが村から仰ぐ赤城の偉容は、わが村人だけが知っている姿だ。
 上新田から望んだ赤城の嶺には、東から長七郎、地蔵、荒山、鍋割、鈴ヶ岳と西へ並んでいるが、主峰黒桧は地蔵ヶ岳の円頂に掩い隠されて、姿を現わさない。
 私は、五月から六月上旬へかけての赤城が一番好きだ。十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂《ゆ》くと赤城の裾は下の方から、一日ごとに上の方へ、少しばかりずつ、淡緑の彩が拡がってゆく。
 春が、若葉を翳《かざ》して裾野を嶺を指して行くのだ。褄《つま》のあたりを小紋模様に、染め分けて微かに見えるのは、細井や小坂子の山村の数々か、それとも松林か。
 真冬の赤城は、恐ろしい。籾殻灰のように真っ黒な雲が地蔵ヶ岳を掩うと、有名な赤城颪が猛然と吹き降りてくる。寒冽な強風だ。風花を混じえて、頬に当たれば腐肉も割れやせん。
 私は子供のころ、その痛い嵐が吹き荒む利根川端の崖路を、前橋へ使いに走らせられたことがあったのを記憶している。相生町の津久井医院へ、病母の薬貰いであったかも知れぬ。
 晩秋の夕|陽《ひ》が、西の山端に近づくと、赤城の肌に陽影が茜《あかね》色に長々と這う。そして山|襞《ひだ》がはっきりと、地肌に割れ込んでいるのが、手に取るように見える。箕輪の部落のあたりから富士見村の方へ割れ下っている襞は、あれは白川の流れであろうか。
 父は夕方になると山襞に添って黒くひろがる斑点を指して、幼い私に「白川狐」の物語を、麦田打つ手を休めて、語ってくれた。父は、前橋市宗甫分、昔の勢多郡上川向村大字宗甫分から、利根川の小相木の船橋を渡って、私の家へ養子に来たのである。前橋からの高崎街道は六十年ばかり前までは、宗甫分から利根川を越えて、対岸の西群馬郡東村大字小相木へ通じていた。そこに、船橋が架してあった。
 宗甫分に在った頃の青年の父は、いつも年の暮れが近づくと、村の長老鹿五郎爺の先達で、赤城の中腹にある箕輪村の近くへ、春の用意の薪採りに登って、幾夜も松林のなかへ立てた俄作りの掘立小屋に泊まった。ある年の冬の夜、その小屋の近くを流れる白川の崖に棲む「白川狐」の二匹が、一人の娘に化けて掘立小屋を訪ねてきたのに、青年の父が応待したという話である。
 二匹の狐が、一人の娘に化けたというのが、私ら子供の興味を集めた。一匹の狐が、一匹の狐の肩車に乗り、一体となって巧みに、姿のなまめかしい娘に化けた。
 そこで、娘は青年達が宿っている掘立小屋へ、夜の訪問とでかけたわけだ。思い設けぬ美人の訪問に、青年達は大いに喜んで厚くもてなした。そこで、私の父も家から持って行った餅を五切れ六切れ、榾火に焼いて、娘に馳走したところ、娘はおいしそうに、そして恥ずかしそうに、むしゃむしゃと盛んに食べた。
 ところで、頬ふくらして盛んに食べたのは、肩車に乗った上の狐である。肩車の下の狐は、これを見て、朋輩のやつ、ひどく旨いことをやっていやがるな。だが待てよ。ここらで、小生が食い意地をはり、ちょっかいを出せば、あらぬところで化の皮を剥がれる虞《おそ》れがあろう。
 待てば海路の日和《ひより》、そのうちには小生の方へも、お鉢が回ってくるに違いないと、下の狐はしばしがほど、辛抱に辛抱を重ねて、上の狐が青年共の隙を狙って、一切れの餅を股座《またぐら》へ抛り込むのを待っていた。
 が、しかし上の狐は甚だ友情に乏しい。手前ひとりで、食ってばかりいる。下の狐は、憤慨してむかっ腹を立てた途端にわれを忘れ、先刻の自制心を失い、裳《も》の間から素早く手を出して上の狐の持っている餅を奪って、股座の奥の横に割れた己の口へ、ねぢ込んだ。
 そんな次第で、ついに美人は青年達に正体を見破られ、からき目に会って二匹の狐は命からがら白川の崖へ逃げ帰ったという父の実話である。
 父は話上手で、手まね物まねで語るから「白川狐」の話は、何度聞いても、飽くことを知らなかった。父逝いて幾年、晩秋がめぐりきて、夕陽が赤城の山襞を浮き彫りにするとき、私の眼には白川狐が、餅を食べている姿が甦《よみがえ》る。白川狐は、いまもなお赤城の山襞に、永遠の生を続けているであろう。
 赤城の左の肩には、利根郡の中央に蟠踞する雪の武尊《ほたか》山が、さむざむとした姿をのぞかせている。仏法僧で名高い武尊の前山の、迦葉山は、いずれの突起か。
 子持と小野子の二つの山は赤城の山裾が西へ長く伸びて、そこに上越国境から奔下する利根の激流を対岸に渡った空間に静座しているのである。この二つの山は、わが村から真北に当たって、赤城の裾と榛名の裾が、相触れようとする広い中空を占めている。子持は右、小野子は左だ。なんと円満な、そして温厚な二つの山の風影であろうか。厳冬が訪れても、かつて険相に墮したことがない。
 子持山と、小野子山の東西相|倚《よ》る樽の奥遠く、頭の白い二つの山が顔を出している。右が茂倉岳、左が谷川岳である。平野の人々は遙かにこれを望んで、ただ越後山と呼んでいるが、二つとも上野国と越後国にまたがっているのである。
 この二つの山は、平野から北へ眺める一番深い山である。十月半ばには、毎年頭に白い雪を冠る。里の人々は『越後山に雪が降ったから、そろそろ稲刈りがはじまるだんべ』というのだ。もうその頃には、ときどき寒い秋の風が吹く。
 十月末に降った雪は、年によって七月半ばの夏の土用に入るまで、山の襞に消え残っているのが遠く見えるのである。だからこの山々に全く雪を見ないのは、八、九月の二ヵ月だけだ。
 私は、子供のとき利根の河原からこの山々の白い嶺を雅《みやび》やかに眺めて、まだ知らぬ越後国の雪の里人のありさまについて、いろいろ想像をめぐらしたものであった。晩秋から冬にかけては雪雲と風雲に閉じこめられて、はっきりと姿を現わすことは稀《まれ》である。春は春霞に、夏は夏霞に面を掩うて、晴れやかに里の人々に国境の寂しさを物語ることは少ないが、九月から十月にかけての秋晴れの日には丸裸となった嶺の容が眼に近い。
 谷川岳も、二十年前、まだ上越線が開通しないうちには、ただ遠い山と呼ばれてのみ、人々の接近を許さなかったのである。伊勢崎市付近の平野からは、谷川岳の左に続いて万太郎山の姿が遙かに見える。
 小野子山の肩から、榛名山の右の肩にかけて空間に、これを遙かに白い国境の山脈が連なっている。三国峠を中心とした三国山の峰々である。上越線が開通する以前、恐らく数百年前から、越後国の人々はこの雪の三国峠を草鞋《わらじ》をはいて越え、上州や武州の江戸村の方へ稼ぎに出て行った。米搗く人もあったろう、湯屋の三助を志す人もあったであろう。
 三国連山から西に続いて、渋峠の山と草津の白根火山が聳えているのであるけれど、白根山も渋峠も、榛名山の背後に隠れて、平野からは全く視界を絶っている。しかし、昭和七、八年頃、白根が盛んに噴煙している間は、静かに晴れた秋の日に、夕陽を狐色に映した煙が、榛名山の右の肩から細く、東北の方、越後の空に遠く棚引くのを折り折り望見した。
 榛名山は、わが上新田にとって、お隣という感じである。あるいは、上新田は榛名山の麓の分に含まれているかも知れぬ。
 真北よりも、少し西に位置して、群馬郡南部の平野を悉く、おのれの衣裳のうちに包んでいる。赤城と同じに、なんと広い裾野の持ち主ではないか。
 榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど、女性的といえるかも知れない。東から船尾、二つ岳、相馬山、榛名、富士と西へ順序よく並んで聳えるが、どの峰もやわらかな調和を失わない。そして、それぞれが天空に美しく彫りつけたような特色を持っているけれど、敢て奇嬌ではない。
 まず、榛名は麗峰と呼んで日本全国に数多くはあるまいと思う。
 死んだ村上鬼城は、榛名の春霞に陶酔して、これを幾度も俳句に読んでいるけれど、私は秋の榛名に傾倒している。九月の末になって、峰の初霜から次第に冷涼が加わってくると、榛名は嶺の草原から紅くなる。十月に入ると、もう朝寒むである。嶺の草紅葉の色は、段々に中腹の雑木林に移り染まって恰《あたか》も初夏、新緑が赤城の裾野を頂に向かって這い登るのと反対に、一日ごとに青草の彩が、麓の方へ退くのが、はっきりと分かるのである。
 この頃の榛名を眺めると、私は終日飽くことを知らない。殊に、十月下旬になると相馬ヶ原一帯の錦繍《きんしゅう》は、ほんとうに燃ゆるようだ。明治三十九年の正月の上旬であったと思う。私は
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