、帰省して箕輪町の奥の松の沢の山家へ泊まったことがあった。その夜、山家では山鳥の汁で、手打ち蕎麦を馳走してくれた。それから四十年の月日は過ぎたが、その時の榛名の鳥蕎麦の味は忘れられない。
 食後、松の沢の部落から、前橋方面に大きな火事が火の手をあげるのを発見した。あとで聞いた話だが、それは前橋市立川町の敷島屋が焼け、逃げおくれた男女が七、八人、無惨の死を遂げたということであった。
 山上の榛名湖にも、いろいろの想い出がある。華やかな火口原の花野の果てに、漂う水の湖辺に糸を垂れて大きな鱒を引っかけた釣悦は、なににたとえよう。青銀色の艶に光る鱗のなかに、丸々とした肉脂を蓄えた鱒の風味に添えて、一盃の麦酒、まことに物豊かな想い出だ。
 氷上の公魚《わかさぎ》釣りも、趣が深い。釣りあげて氷上に放つと、忽ち棒のように凍った公魚は、細かい鱗の底から、紫色に光る艶を放って、鮮麗な小魚である。天ぷらによし、塩焼きによし、汁物によし。
 伊香保温泉は、二つ岳の背後にあって、南方の平野からは望めぬが、私は十七、八年前、幼くして夭折した二男のやまいをここで養ったことがあった。丈夫でいれば、予科練へでも入ったか、特幹でも志願したか。特別攻撃隊の卵にでもなっていたであろう。
 上新田から見る五月の落日は、榛名山の西端にかかる。初夏の厚い霞を着た入陽《いりび》は、緋の真綿に包んだ茶盆のように大きい。麓の遠い村々にはもう夕べの炊さんの煙が、なびいている。
 西の空には、煙の浅間山が浅間隠し山、鼻曲がり山、碓氷峠などの前山を踏まえて、どっしりと丸く大きく構えている。一体、浅間山は南向きなのか、東向きなのか、前掛山は、山の中腹から南方へ向かって掛かって見える。
 浅間山は、わが地方の気象台である。明日の晴雨、風雪は浅間山が最もよく承知しているのだ。日中、浅間の煙を望んで、東の空か東南の秩父山の方へ流れていれば、明日は太鼓《たいこ》判を捺したように晴天である。もし、煙が山肌を這って東へ降りれば、明日は強暴雨戸を押し倒すほどの浅間颪。
 ところで、噴煙が火口からすぐ北に向かっていれば、明日の午後か明後日は必ず雨が到来するか、静穏な天候が一両日続くものと判断して差し支えない。だから、秋晴れの日の越後の国の空へなびく煙を眺めれば、明日の釣り道具の用意をはじめて結構だ。
 なにはともあれ、浅間の壮観は、爆発直後、天に沖《ちゅう》する大噴煙の躍動である。ドンと爆音が耳に谺《こだま》したと同時に庭前へ飛びだして西の空を望むと、むくむく灰色の大噴煙の団塊が、火口から盛り上がるのを見るのである。それから一秒、二秒。煙の団塊は天宙に向かって発展し、入道雲のようになって丸く太く高く、高く突っ立つ。
 煙の尖端が天に沖して、ある高度まで達すると、その尖端は必ず東の空へ向かって倒れるのである。東の風の吹く日に爆発したとすれば、爆発直後、煙はある高度までは西方に傾きつつ天に沖するが、さらに高度を高めて一定のところまで上がると、煙の尖端は必ず反対に東の空へ向かって流れはじめるのである。
 そこで我々は、なるほど煙は一万尺の高度に達したなと思うのだ。つまり、煙が必ず東へ向かって流れる一定のところが、成層圏に近いのであるかも知れぬと察するのである。
 浅間の中腹の肌に、瘤のように膨れ上がったのは小浅間である。小浅間から北方へ、なだらかに下れば、はてしもなくひろがった六里ヶ原だ。五月下旬の六里ヶ原の叢林は、漸く若葉が萌えたつ時だ。茶、黄、燻し銀、鼠、鬱紺、淡縹、群がる梢に盛り上がる若葉はなんと多彩な艶に、日光を吸い込むことか。
 叢林の若葉の色沢は、触れれば弾力を感ずるのではないかと思う。
 六里ヶ原の浅絲の下には、幾本もの渓流が吾妻川の峡谷に向かって走っている。そこには、数多い山女魚《やまめ》が棲んでいて、毛鈎《けばり》の躍るを追い回す。殊に熊川渓谷の銀山女魚の味は絶品だ。
 四阿《あずまや》山は、上信国境の峻峰であるけれど、遠く榛名の西の肩に隠れて姿を出さない。しかし両毛線の汽車に乗り、新前橋駅を発して高崎駅へ向かう途中、日高村の信号所の前後からは、僅かに頭の一端を遠望することができる。それも、まだ残雪の濃い早春の、穏やかに晴れた朝でないと、他の群峰に紛れて、しかと判別することができぬ。ほんの、拳ほどの大きさに、白い頭が覗いているだけである。
 浅間の東南に続くのは、角落や妙義の奇山で、これは誰にもなじみ深い。わが村から真西に卓子のように平らに横たわるのは、神津牧場の荒船山である。荒船山の右の肩から奥の方に、雪まだらの豪宕《ごうとう》の山岳が一つ、誰にも気づかれぬかに黙然と座している。これが、信州南佐久の蓼科《たでしな》だ。
 それに連なって、西南の空は遠い峻岳高峰が居並び、まことに絢爛たる眺めである。秋も終わりに近づいて、そろそろ稲の収穫がはじまろうとするころ、荒船山の南方と、秩父山の西北との遠い遠い空に、雪の連山が生まれたように浮いて出る。
 この連山は夏から秋の半ばころにかけては、あたりの群山に紛れて、全く人々の注意を惹かないのであるけれど、上州の平野から眺める四囲の山々で、最も早くこの連山に雪がくるので、はじめて晩秋の農民の眼に映るのである。我々平野の人々は、昔からこの遠山の名を知らなかった。
 ただ村人は、あれは信州か甲州の奥山であろうと思っていた。
 ところで、あの遠い山をはじめて甲州の八ヶ岳であると断定したのは、私であった。それは私が登山に趣味を持つようになって、甲州や駿河信州の飛騨の山々を歩きはじめた今から三、四十年前のことであった。甲州の甲府の南方釜無河畔から眺めた八ヶ岳と、ある年の晩秋、上新田へ帰省して、西南の遙かな空にあの白い奥山を望んだとき、形の大小遠近こそあれ、全く姿が同じであったので、あれは八ヶ岳であったかと、多年の謎が解けたのである。
 赤岳を主峰として八つの嶺が序列正しく白い新雪を冠り、怒れる猛獣が銀の牙を天に向かって剥《む》きだしたに似た姿を遠望したとき、真に凄寒を催さざるを得ない。折柄、秋風空中を掠《かす》めて稲刈る人の指先が、ひとりでにかじかむ。
 八ヶ岳の雄容はひとりわが上新田ばかりから望めるのではない。高崎市に近い佐野村を通過する信越線の汽車の窓からも前橋公園の桜の土手からも、はっきり眺めることができるのだ。
 四月の半ば、桜の花が散るころ、わが故郷には西南の微風が齎《もたら》した細雨が、しとしとと降ることがある。この雨雲はあの遠い甲州の奥山から送ってくるのであると、里人は言い伝えた。西南の遠い山から吹いてくるこのやわらかい微風は、糟のように細かい雨と共に、駿河大納言が詰腹を切った高崎の鐘の音も雲に含んで伝えてくる。
 こうして春の夕、大信寺の鐘の音が、わが村に響いて、余韻が消えなんとするとき、村の末風山福徳寺の鐘が、人の撞《つ》かぬのに大信寺の鐘に応えるが如く、自ら低く唸り咳くのである。この話は、象徴的な興味深いところがあるけれど、語りだせば余りに長くなるから、ここでは山の姿のみを眺めて、別の機会に譲りたいと思う。
 八ヶ岳の左手に、いつも濃紺の肌の色を、くっきりと現わした円錐形の高い山が、つつましき姿で立っているのを見いだすであろう。それはやはり甲州の金峰山だ。金峰山は、なんとみめかたちよい山か。
 標高八千尺というから、むろん秋から初夏にかけ、白い雪を頂いているのであろうが、四季濃紺の色に肌を染めているのは、わが村から眺める光線の角度によるのかも知れぬ。お隣の瑞垣山は、いずれかの山のかげに隠れて、面をださない。
 それから東に眼を移すと、近くは上州北甘楽の稲含山、多野の西御荷鉾山、東御荷鉾山。遠くは武州と甲州にまたがる奥秩父の連山が、十重二十重に霞の奥の果てまで連なっている。近きは紫紺に、遠きは浅葱《あさぎ》色に、さらに奥山は銀鼠色に。
 甲武信か国師か雁坂か、武甲山か三峰か、いずれがどれとも名は分からないが、奥秩父の高山が東へ向かって走ったその奥遙かに、奥多摩の雲取山が銀鼠色に、淡く煙って見える。太い平らな胴を台にして、熊の爪のように並ぶ三、四の小峰は、あれは雲取山の頂に違いない。
 これで、上州の平野から眺望する四辺の山々に、眼を一巡させたが、秩父の連山はさらに東南へ低く伸びて、武州児玉郡か北埼玉郡の草野のなかに、裾を没している。
 そこはもう、広茫たる関東平野だ。秩父山の消えるところと、野州の連山の消えるところのわが村から指して東南の一隅には、全く山を見ない。夏は、その地平線から白い雲が湧き、冬は灰色の浮雲が、その地平線に吸い込まれて行った。
 上州の東南地方から武州、下総国かけて一望、眼を遮るもののない大平野である。一つの小山もなく、青い田と畑が、際限なく押し広がっている。この平野の尽くるところの海辺に東京の街がある。前橋から二十八里。
 大正十二年九月一日の夜、大震災の火の手はいよいよ逞しく、東京の下町を殆ど焼き尽くしたが、天を焦がす猛火の反映が、燃ゆる雲となってむらがり立ち、関東平野の西北端にある赤城と榛名の麓の村々からも、東南の水平線に怖ろしきばかりに見えたのである。
 東京も永い年月住んでみれば、万更いやなところでもない。こうして、お膝元を離れ麦田と桑畑に囲まれた農村へ帰り住むと、白雲が流れる東南の方、都の空がなつかしくもある。
 私の、上新田の茅舎《あばらや》は、利根の河原へ百歩のところにある。朝夕、枕頭に瀬音の訪れを聞くのは、子供の時からの慣わしである。利根川なくして、私の人生はないようなものだ。四季、さまざま想い出の水が流れる。初夏には、母や姉と共に蚕蓆を洗いに行った。初夏とはいえど水源である上越国境の大水上山の雪を解かして流れくる水温は、摂氏の十度前後と思わんばかりに低い。水際に浸ってものの五分もたたぬうちに、姉の白い脛は冷烈の水に刺されて、紅に彩った。
 夏がくれば、私は魚籠《びく》をさげて父のあとから、ひょこひょこ歩き、投網打ちに行った。筌《うけ》をかけにも行った。釣りにも行った。五歳の折りの想い出、十歳のとき、十五歳のとき、二十歳のとき、三十歳のとき、四十歳のとき、わが生涯の歴史は、綿々として絵巻物のように、上新田の地先の利根の流れの面に、絶え間なく幻影を描きだす。
 私は、遠く山々を望んだとき、利根の水際に佇んだとき、ほんとうに童心に返る。全く人間の五欲を忘れてしまう。
 それは、私ばかりではあるまい。誰でも、愉しき過去、悲しき過去には、山と水の俤が夢に残る。人は、その想い出にわれを忘れる。つまり、童心に返るのだ。私は、市川猿之助の舞踊劇『黒塚』に心酔して、これを三、四回観たのであるが、那智から巡りきた行脚の僧の看経の功徳により、安達ヶ原の鬼女は悪夢から覚めたように過ぎし罪業を離脱し、ゆくりなくも童心に返って丸い大きな月が遍《あまね》く照らす芒野にさまよいいで、幼きころ都にて習いおぼえし月の歌の踊り。われを忘れて口ずさみつつ茜草踏んで踊る場面は、観る私もうっとりとして、われを忘れてしまった。



底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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