ちに、お笑い草があるから、お聴きしていただきたい。
 当時の校長は丘さんといって、鹿児島県出身の厳格な教育家であった。その頃、我々学生は昼の弁当を教室内で食べる規則となっていたのであるが正午の時間がくると学生らは、その規則を守らないで弁当箱を校庭へ提げ出し、さらに校庭を囲んだ土手を越えて利根の河原へ繰り出したものだ。
 そして、玉石の上へ腰を下ろし、激流の白い泡を前にし右に赤城、左に榛名を、七分三分に眺めながら、悠々と箸を運んだのであった。学校当局は、それを見て怪《け》しからんという思し召しであった。
 いつの間にか校庭の土手の上は、木の柵で囲まれてしまった。ところで同盟休校の決議文のうちに、校長の反省を求める趣旨で「我々学生は牛に非ず」という一項があったと記憶する。
 そんな稚い学生であるが、東京へ出るよりほかに途はない。だが、同盟休校をたくらんだ主謀者の腹の奥には、日ごろ田舎の中学にいるのは時代遅れだ。東京の空気が吸いたい。けれどそんな希望を父兄に申し込んだところで、一喝を喰うだけであるのは分かりきっている。だから、同盟休校をやれば退学処分にあう。退学処分にあえば、父兄もしょうこと
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