わが身の生き甲斐を、しみじみと思い入り申侯。
対岸は伊勢の山々、こちらは紀伊の縣崖。その間に散在する水田や山畠は掌の如く小さく候えども、これが小生の農園に御座候、既に鍬執る小生の腕には肉瘤の盛り上がるを見申し、嶺や麓の新緑を眺めながら、これからは一層増産に励まんかと、覚悟致し居り候。
末筆ながら御報告申上げたきは、山菜と青果の栄養に育つ、わが子等の姿に御座候、未だ九歳と十一歳の幼年に候え共、男の児はやはり男の児に御座候、小生に似て、はや膚肉逞しく朝夕学校の余暇には、親に従い棧道に薪を背負い、段畠に耕土を掘り返し居り申候。この子等に腹の底まで故郷の素朴なる自然に親しませ、育ち上ぐるが小生の生涯の楽しみに有之候。
わが村は、二千六百有余年前、神武天皇大和国御討伐のみぎりの、御征路に候、一日も早く子供等を成人させ、神武天皇の御心に、従軍いたさせたく、大切にいつくしみ居り候、それに引き換え、小生は月日と共に老境を辿り、昔の俤は消え去り、まことに心細き態に候。阿阿。
まずは御無沙汰の御わびまで。敬具。
私はこの旧友の久し振りの手紙を、二度三度目誦した。友は南紀熊野の故郷に帰り住み、大
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