、夕方早く学校から帰ってくると、田端の高台の一番高いところにある大根畑の傍らに佇んで、西北の遠い空を望み凝した。
それは、赤城と榛名の姿を探し求めたのである。しかしながら、わが求むる赤城と榛名は、いつも秋霞の奥の奥に低く塗りこめられて、つれなくも私の視界に映らない。ただ近く秩父の山々が重畳と紫紺の色に連なり、山脈が尽きるあたりの野の果てに頂をちょんぼり白く染めた富士山が立っていた。
大根畑の傍らへ、朝も夕も通ったが、とうとう故郷の山を望み得なかった。もう堪らない。
一度、父母の顔を見に帰ることにきめた。ごとごとと汽車が走った。桶川駅を過ぎたあたりまでくると、汽車の窓から一心に西北の空を眺める私の眼に、赤城と榛名の低く淡く地平線に横たわる容が映るのであった。私は、瞳を凝した。頭がうっとりした。
恰《あたか》も、冬の夜に、甘酒を一杯頂戴して、からだに温《ぬく》もりを覚えたほどの、想いを催したのである。私は、利根川の西岸上野国東村大字上新田に生まれ育った。よちよち歩く頃から東の田圃へ出れば赤城山、西の田圃へ出れば榛名山、北方の空に春がきても夏がきても四季の朝夕楽しき折りも、悲しき折りも、この二つの山の温容を眺めながら育ってきた。
二つの山は、私に取って豊艶な母の乳房にも譬うのである。赤城は右の乳房。榛名は左の乳房。いま、私のまぶたの裏に、故郷の乳房が映ったのだ、泪《なみだ》が漂う。
身も心も、大自然に溶け込んでしまいたい想いだ。山の懐ろへ抱かれて、すやすや眠りたい想いだ。汽車の窓にうっとりとしているわが胸に幼き腕に笊を抱えて、田圃の小川に小鮒を漁った頃から、ついこの初夏に同盟休校をやって、校門を突き出されるまでの、さまざまの想い出が風景映画のように、区切りもなく影を描いてゆく。
それからもう、四十幾年を過ぎ、私は老境を迎えて、白髪の親爺となった。しかし故郷を恋う心は一層こまやかになってきた。殊に、両親を亡くしてからというものは、一入《ひとしお》、山の姿がなつかしい。
私はこのたび、幾十年振りかで、父母のいない生まれ故郷の上新田へ帰ってきた。住まいは昔のままの草|葺《ぶき》の朽ちた百姓家である。裏の籔にも、昔のままの竹が伸びていた。村の、あの家この家も趣を変えない。かつて青年であった村人は、皺の数を増し、髪を白くしているけれど、当時の俤を失わぬ。
野路に遊ぶ子供らを見ても亡き何兵衛、何蔵に瓜二つの子や孫である。四十年前菱形であった麦田は、いまもなお昔のままの菱形であった。
なきは、わが父母だけである。
だが、藍青の裾を長くひいた山々は、過ぎし日の温容そのままで、わが亡き父母に代わって在りし日の想い出を、私に物語るのではないか。
なんでこんなよい日本を人手に渡せよう。なんで、こんなやさしい上州へ、他人の侵入を許せよう。
その想いは、私一人ばかりが持っているのではない。大和民族として生をうけたものならば誰でも同じである。
慈母の如く、豊情豊彩のわが山川草木に、他人の一指も触れさせないために、決死斬込隊も出た。特攻肉弾の勇士も出た。つまり言い換えれば、決死隊も特攻隊も、わが山川草木が生んだことになるであろう。
我々がわが上州に、尽きぬ愛敬と慕情を捧げると同じに越後の人は越後に、信州の人は信州に、紀州の人は紀州に、それぞれの土に血の脈を感じているのである。母国という言葉は、誰が作ったのか、さればこそ、大和民族のすべてが清いのだ。
さりながら私は、わが上毛の国を佳国中の佳国であると思っている。私は若い時から旅行が好きで、釣り竿一条を携えて、日本のあちこちを北へ南へ歩き回ってきた。昨年は夏から晩秋へかけて満州の東西南北を釣りめぐり、外蒙古境まで魚影を慕って旅したほどである。
釣りはさることながら、私は旅先でそこの風景に親しむのが好きである。旅先の雲のたたずまい、山の姿、草木の彩水の趣。それぞれの特色を見のがすまいとしてきた。
いずれの土地も、それぞれ秀でた風景に恵まれて、自然は温かく豊かに里人を抱いていた。そして私は、その土地の人情にも接した。食べものの味も、試みた。
けれど、東京は言わずもがな、どこの国でも、わが上州ほどよい国はない。と、感じてきたのである。取り分け私は生まれた上新田の眺めがよい。
試みに、上新田の田圃へ出て、東西南北の風姿に一瞥を与えようか。
さて東の空へまず手を翳《かざ》そう[#「翳《かざ》そう」は底本では「翳《かざ》さう」]。山田郡と思える方の地平線から、低く起伏した浅緑の峰々は桐生市の裏山から野州の足利、安蘇、下都賀郡の方へ連なる一連の山脈である。真夏がくると朝の四時半には、もう敦光《とんこう》が鮮やかに、きらめくのである。そこに東雲《しののめ》のたなびくころ、幼い私は父に連れら
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