れて、利根の流れへ鮎釣りに行った。利根の崖に、楢《なら》の若葉が天宝銭ほどの大きさに、育っていたのである。
この山脈の上にはもう五月に入ると、いつも鈍い銀色の、雲の峰が立つ。そして積乱雲は、夕|陽《ひ》を映し受けて、緋布のように紅く輝くのを、私は子供の時から眺めてきた。しかしこの雲の峰に、決して上州方面へは雷雨を齎《もたら》さない。いつも、東の空へ長く倒れる。多分、下野国の耕野を白雨に霑《うるお》すことであろう。
それから東北に眼を送ると足尾の連山が、赤城の長い青い裾から、鋸の歯のように抜けだしている。足尾山は、中宮祠湖畔の二荒山や、奥日光の峻峰を掩い隠しているけれど、わが上新田から一里半ばかり南方の玉村町近くへ行くと赤城と足尾連山の峡から奥白根の高い雪嶺が、遙かに銀白色の光を放っているのを眺め得よう。
足尾山の左は、わが赤城だ。私の村からは、真北よりも東に位置して、前橋の街を裾の間へ掻い込まんばかりにして聳えている。
赤城について説明するのは、いらぬことであろう。上州人は赤城山について、知り抜いている。しかし、わが村から仰ぐ赤城の偉容は、わが村人だけが知っている姿だ。
上新田から望んだ赤城の嶺には、東から長七郎、地蔵、荒山、鍋割、鈴ヶ岳と西へ並んでいるが、主峰黒桧は地蔵ヶ岳の円頂に掩い隠されて、姿を現わさない。
私は、五月から六月上旬へかけての赤城が一番好きだ。十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂《ゆ》くと赤城の裾は下の方から、一日ごとに上の方へ、少しばかりずつ、淡緑の彩が拡がってゆく。
春が、若葉を翳《かざ》して裾野を嶺を指して行くのだ。褄《つま》のあたりを小紋模様に、染め分けて微かに見えるのは、細井や小坂子の山村の数々か、それとも松林か。
真冬の赤城は、恐ろしい。籾殻灰のように真っ黒な雲が地蔵ヶ岳を掩うと、有名な赤城颪が猛然と吹き降りてくる。寒冽な強風だ。風花を混じえて、頬に当たれば腐肉も割れやせん。
私は子供のころ、その痛い嵐が吹き荒む利根川端の崖路を、前橋へ使いに走らせられたことがあったのを記憶している。相生町の津久井医院へ、病母の薬貰いであったかも知れぬ。
晩秋の夕|陽《ひ》が、西の山端に近づくと、赤城の肌に陽影が茜《あかね》色に長々と這う。そして山|襞《ひだ》がはっきりと、地肌に割れ込んでいるのが、手に取るように見える。箕輪の部落のあたりから富士見村の方へ割れ下っている襞は、あれは白川の流れであろうか。
父は夕方になると山襞に添って黒くひろがる斑点を指して、幼い私に「白川狐」の物語を、麦田打つ手を休めて、語ってくれた。父は、前橋市宗甫分、昔の勢多郡上川向村大字宗甫分から、利根川の小相木の船橋を渡って、私の家へ養子に来たのである。前橋からの高崎街道は六十年ばかり前までは、宗甫分から利根川を越えて、対岸の西群馬郡東村大字小相木へ通じていた。そこに、船橋が架してあった。
宗甫分に在った頃の青年の父は、いつも年の暮れが近づくと、村の長老鹿五郎爺の先達で、赤城の中腹にある箕輪村の近くへ、春の用意の薪採りに登って、幾夜も松林のなかへ立てた俄作りの掘立小屋に泊まった。ある年の冬の夜、その小屋の近くを流れる白川の崖に棲む「白川狐」の二匹が、一人の娘に化けて掘立小屋を訪ねてきたのに、青年の父が応待したという話である。
二匹の狐が、一人の娘に化けたというのが、私ら子供の興味を集めた。一匹の狐が、一匹の狐の肩車に乗り、一体となって巧みに、姿のなまめかしい娘に化けた。
そこで、娘は青年達が宿っている掘立小屋へ、夜の訪問とでかけたわけだ。思い設けぬ美人の訪問に、青年達は大いに喜んで厚くもてなした。そこで、私の父も家から持って行った餅を五切れ六切れ、榾火に焼いて、娘に馳走したところ、娘はおいしそうに、そして恥ずかしそうに、むしゃむしゃと盛んに食べた。
ところで、頬ふくらして盛んに食べたのは、肩車に乗った上の狐である。肩車の下の狐は、これを見て、朋輩のやつ、ひどく旨いことをやっていやがるな。だが待てよ。ここらで、小生が食い意地をはり、ちょっかいを出せば、あらぬところで化の皮を剥がれる虞《おそ》れがあろう。
待てば海路の日和《ひより》、そのうちには小生の方へも、お鉢が回ってくるに違いないと、下の狐はしばしがほど、辛抱に辛抱を重ねて、上の狐が青年共の隙を狙って、一切れの餅を股座《またぐら》へ抛り込むのを待っていた。
が、しかし上の狐は甚だ友情に乏しい。手前ひとりで、食ってばかりいる。下の狐は、憤慨してむかっ腹を立てた途端にわれを忘れ、先刻の自制心を失い、裳《も》の間から素早く手を出して上の狐の持っている餅を奪って、股座の奥の横に割れた己の口へ、ねぢ込
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