んだ。
そんな次第で、ついに美人は青年達に正体を見破られ、からき目に会って二匹の狐は命からがら白川の崖へ逃げ帰ったという父の実話である。
父は話上手で、手まね物まねで語るから「白川狐」の話は、何度聞いても、飽くことを知らなかった。父逝いて幾年、晩秋がめぐりきて、夕陽が赤城の山襞を浮き彫りにするとき、私の眼には白川狐が、餅を食べている姿が甦《よみがえ》る。白川狐は、いまもなお赤城の山襞に、永遠の生を続けているであろう。
赤城の左の肩には、利根郡の中央に蟠踞する雪の武尊《ほたか》山が、さむざむとした姿をのぞかせている。仏法僧で名高い武尊の前山の、迦葉山は、いずれの突起か。
子持と小野子の二つの山は赤城の山裾が西へ長く伸びて、そこに上越国境から奔下する利根の激流を対岸に渡った空間に静座しているのである。この二つの山は、わが村から真北に当たって、赤城の裾と榛名の裾が、相触れようとする広い中空を占めている。子持は右、小野子は左だ。なんと円満な、そして温厚な二つの山の風影であろうか。厳冬が訪れても、かつて険相に墮したことがない。
子持山と、小野子山の東西相|倚《よ》る樽の奥遠く、頭の白い二つの山が顔を出している。右が茂倉岳、左が谷川岳である。平野の人々は遙かにこれを望んで、ただ越後山と呼んでいるが、二つとも上野国と越後国にまたがっているのである。
この二つの山は、平野から北へ眺める一番深い山である。十月半ばには、毎年頭に白い雪を冠る。里の人々は『越後山に雪が降ったから、そろそろ稲刈りがはじまるだんべ』というのだ。もうその頃には、ときどき寒い秋の風が吹く。
十月末に降った雪は、年によって七月半ばの夏の土用に入るまで、山の襞に消え残っているのが遠く見えるのである。だからこの山々に全く雪を見ないのは、八、九月の二ヵ月だけだ。
私は、子供のとき利根の河原からこの山々の白い嶺を雅《みやび》やかに眺めて、まだ知らぬ越後国の雪の里人のありさまについて、いろいろ想像をめぐらしたものであった。晩秋から冬にかけては雪雲と風雲に閉じこめられて、はっきりと姿を現わすことは稀《まれ》である。春は春霞に、夏は夏霞に面を掩うて、晴れやかに里の人々に国境の寂しさを物語ることは少ないが、九月から十月にかけての秋晴れの日には丸裸となった嶺の容が眼に近い。
谷川岳も、二十年前、まだ上越線が開通しないうちには、ただ遠い山と呼ばれてのみ、人々の接近を許さなかったのである。伊勢崎市付近の平野からは、谷川岳の左に続いて万太郎山の姿が遙かに見える。
小野子山の肩から、榛名山の右の肩にかけて空間に、これを遙かに白い国境の山脈が連なっている。三国峠を中心とした三国山の峰々である。上越線が開通する以前、恐らく数百年前から、越後国の人々はこの雪の三国峠を草鞋《わらじ》をはいて越え、上州や武州の江戸村の方へ稼ぎに出て行った。米搗く人もあったろう、湯屋の三助を志す人もあったであろう。
三国連山から西に続いて、渋峠の山と草津の白根火山が聳えているのであるけれど、白根山も渋峠も、榛名山の背後に隠れて、平野からは全く視界を絶っている。しかし、昭和七、八年頃、白根が盛んに噴煙している間は、静かに晴れた秋の日に、夕陽を狐色に映した煙が、榛名山の右の肩から細く、東北の方、越後の空に遠く棚引くのを折り折り望見した。
榛名山は、わが上新田にとって、お隣という感じである。あるいは、上新田は榛名山の麓の分に含まれているかも知れぬ。
真北よりも、少し西に位置して、群馬郡南部の平野を悉く、おのれの衣裳のうちに包んでいる。赤城と同じに、なんと広い裾野の持ち主ではないか。
榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど、女性的といえるかも知れない。東から船尾、二つ岳、相馬山、榛名、富士と西へ順序よく並んで聳えるが、どの峰もやわらかな調和を失わない。そして、それぞれが天空に美しく彫りつけたような特色を持っているけれど、敢て奇嬌ではない。
まず、榛名は麗峰と呼んで日本全国に数多くはあるまいと思う。
死んだ村上鬼城は、榛名の春霞に陶酔して、これを幾度も俳句に読んでいるけれど、私は秋の榛名に傾倒している。九月の末になって、峰の初霜から次第に冷涼が加わってくると、榛名は嶺の草原から紅くなる。十月に入ると、もう朝寒むである。嶺の草紅葉の色は、段々に中腹の雑木林に移り染まって恰《あたか》も初夏、新緑が赤城の裾野を頂に向かって這い登るのと反対に、一日ごとに青草の彩が、麓の方へ退くのが、はっきりと分かるのである。
この頃の榛名を眺めると、私は終日飽くことを知らない。殊に、十月下旬になると相馬ヶ原一帯の錦繍《きんしゅう》は、ほんとうに燃ゆるようだ。明治三十九年の正月の上旬であったと思う。私は
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