けでほんとうに自分は東京の朝な、夕なに愛着を感ずる。いや、愛着どころではない。自分は、東京と切っても切れぬのだ。だから、親戚や友人があちこちへ疎開転住をするけれど、自分は東京から草鞋《わらじ》をはく気持ちになれない。
 いつぞや、木村君はこう私に述懐したことがあった。
 木村君としてみれば、千代田城の遠霞、水郷である本所あたりの下町情調は、臍の緒切ってからの環境であろう。ちょうど我々が、春風が訪れても、木枯《こがらし》が吹きすさんでも、朝起きれば赤城、榛名の姿に接し、大利根の瀬音に耳を傾けつつ育ったのと同じであろう。
 我々からみれば、東京はまことに殺風景のところだ。私も永い年月東京住まいをしたけど、なんとなく潤いある情味に乏しい。でも、木村君に取ってはそこが唯一無二の故郷なのだ。そして、無上の愛着を感じているという。
 木村名人の気持ちは、よく分かる。
 それを想うと、木村君に比べて、なんと我々は恵まれた土地に生を享けたことであろう。眼をやれば、千々に重なる山の容。青き野原。一歩すれば、足下に流るる清冽な水。花弁重たき菜穀の田畑。さらに接するにわが生まれた里人の醇朴な温情。
 国破れて、山河ありとは支那の言葉だ。わが日本では、飽くまで国栄え、山河朗々である。万一、国亡ぶれば、山河もない。
 死に徹するまで、郷土の清婉《せいえん》なる風景を護るわが国民である。それが、日本の伝統だ。わが伝統は、国民を清からしめた。我々は、無言の間に、天命かけてわが美しき風景を護っているのである。山、河、野は我々の心である。
 ああ上州よ、上州よ、赤城よ、榛名よ、利根川よ、われは汝と生死を共にして、行くところまで行くであろう。
 私は少年の頃、東京へ転学した。顧みれば、明治三十八年五月十四日の真昼のことである。我々四年生が主謀者となって、前橋中学の生徒控室で全校生徒の同盟休校を決行した。折りしも三十有余年前の五月半ばの校庭には、葉桜と欅《けやき》の若葉に、初夏には早い青嵐が吹いていた。
 結果は、諭旨退学である。前貴族院議員本間千代吉、高橋ドリコノ博士、元アルゼンチン公使内山岩太郎らをはじめとして、四十三名の若き主謀者たちは、笈《おい》を負うて東京の私立中学の補欠募集に応ずるため、ぽつぽつと上京した。私も、その一人である。
 閑話休題。ちょっと筆が横路にそれるが、同盟休校決行の趣旨のうちに、お笑い草があるから、お聴きしていただきたい。
 当時の校長は丘さんといって、鹿児島県出身の厳格な教育家であった。その頃、我々学生は昼の弁当を教室内で食べる規則となっていたのであるが正午の時間がくると学生らは、その規則を守らないで弁当箱を校庭へ提げ出し、さらに校庭を囲んだ土手を越えて利根の河原へ繰り出したものだ。
 そして、玉石の上へ腰を下ろし、激流の白い泡を前にし右に赤城、左に榛名を、七分三分に眺めながら、悠々と箸を運んだのであった。学校当局は、それを見て怪《け》しからんという思し召しであった。
 いつの間にか校庭の土手の上は、木の柵で囲まれてしまった。ところで同盟休校の決議文のうちに、校長の反省を求める趣旨で「我々学生は牛に非ず」という一項があったと記憶する。
 そんな稚い学生であるが、東京へ出るよりほかに途はない。だが、同盟休校をたくらんだ主謀者の腹の奥には、日ごろ田舎の中学にいるのは時代遅れだ。東京の空気が吸いたい。けれどそんな希望を父兄に申し込んだところで、一喝を喰うだけであるのは分かりきっている。だから、同盟休校をやれば退学処分にあう。退学処分にあえば、父兄もしょうことなしに我々を東京の学校へ送るであろう。
 こんな三段飛びの秘策が密にたくらまれてあったのは否まれない。そこで、うまうまと目的を達したわけになった。
 上京二、三ヵ月は、私立学校補欠募集を目ざし、己が面目かけて勉強していたために故郷のことなど、てんで頭になかったけれど、入学試験に及第して、ほっとして下宿屋の四畳半に胡座《あぐら》をかくと、故郷の空がそろそろと頭にうかぶ。
 私は、勉強の方は甚だ不得手で、神田にある東京中学校と、大成中学校を受けたが二つとも落第。最後に、本郷駒込の郁文中学を受けて辛うじて四年の二学期に入学を許された。その試験は、八月の末か九月の初旬で、飛白《かすり》の単衣《ひとえ》に、朝夕の秋風が忍び寄る頃であった。
 田端の高台にある下宿屋に移り、駒込の学校へ通う路すがらの田の畦に蟋蟀《こおろぎ》が唄う秋の詩をきくともなしに耳にする候になると、少年のわが胸に、淡い望郷の念が動いてきた。それが、日をへるに随って、恋々となったのである。
 そのころ本郷の高台と田端道観山を隔てる谷には、黄色く稔った稲田が遠く長く続いていて南方を眺めると根津の権現さままで、見通せたのである。私は
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