川の合流点を下流の方へ曲がる時、左舷から眺めると、鐘ヶ淵の波の上に『みやこ鳥』が浮いていた。楽しそうに水面に群れていたみやこ鳥は、行く蒸気船に驚いて二つの翅《はね》で水を搏《う》った。そして、乗客の眼の上高く舞いめぐる白い腹の下を、薄くれないの二つの脚が紋様に彩《いろど》って、美しかった。
船は今戸の寮の前を通った。間もなく、船が花川戸へ着くと、私はそこから、仲見世の東裏の大黒屋の縄暖簾《なわのれん》をくぐり、泥鰌《どじょう》の熱い味噌汁で燗を一本つけさせた。
その頃、堀が隅田川へ注ぐ今戸の前にも、数多いみやこ鳥が群れていた。今戸にはいくつもの寮が邸をならべていて、みやこ鳥の浮かぶ雪景色に酒を酌んだのであった。今戸の寮は幕末から明治初期までが一番全盛を極めたのであって、この頃の物持ちや政治家が熱海や箱根へ別荘を設けるように、当時銀座の役人や御用《ごよう》商人、芸人、大名、囲われ者などがここへ別荘を作った。これを寮と唱えて、建築から庭園、塀の構えまで豪奢、風流のありたけを尽くしていた。それが、大正十二年の震災までは俤《おもかげ》を残していたのである。
数多い寮のうち陸軍の御用商人三谷三九郎の邸が、明治初年に人から羨望の的となった。山県陸軍卿が御用商人の三谷のこの寮へ行って、堀の小さんと泊まりがけで逢曳《あいびき》したのも当時人の噂に上った。最近まで、報知新聞に伊沢の婆さんという、矢野龍渓、小栗貞夫、三木善八の三代にわたってその俥《くるま》をひいた爺さんの女房が飼い殺しになっていて、山県公の遊び振りや三谷の贅沢振り、今戸の寮に住む人々の風流振りを話したものである。伊沢の婆さんというのは日本橋の小網町の魚仙の娘で、明治五年に十五の年から二十二、三まで、三九郎の妹婿で三谷家総支配人をしていた三谷斧三郎の今戸の寮に奉公していた。
その頃の寮の人々は、舟に乗って浜町|河岸《かし》まで下《くだ》って行き、人形町で買物をしては帰った。今戸から、浜町あたりへ行くのを江戸へ下ると言った。堀の芸者も、浅草で物を買わないで、人形町まで行った。
寮の人々は食いものの贅《ぜい》にも飽きた。明治の中年頃までは大川から隅田川では寒中に白魚《しらうお》が漁《と》れた。小さい伝馬舟に絹糸ですいた四つ手網を乗せて行って白魚を掬ったのである。
この白魚を鰻の筏焼きの串にさして、かげ干しをこしら
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