え酒の肴に珍重した。流れの面に、落ちては輪を描く霙《みぞれ》の白妙《しろたえ》に、見紛う色のみやこ鳥をながめながら、透きとおるほどの白魚を箸につまんだ趣は、どんなに風流なことであったろう。
 わたしは今戸の寮の、昔の豪華譚に憧れて、吉原や小塚っ原へ遊んでは、翌朝千住から船で下って、今戸のみやこ鳥のいる風景を眺めた。
 こうして、私は救うことのできない遊蕩に身を持ち崩した。故郷の父から送ってくる金など、もちろん足りようはずがない。友達から先輩にいたるまで、手の及ぶかぎり迷惑をかけた。果ては誰も顧みるものがなくなった。
 悲しい『夜逃げ』となったのである。

     五

 明治四十五年夏、夜逃げの旅から東京へ帰ってきて以来、このみやこ鳥のことは忘れていた。
 ところが、はからずもこの正月に、両国橋の上から、みやこ鳥に再会した。いまのみやこ鳥は荒川、隅田川、大川尻かけて柳橋の龜清の石垣にいるだけであるそうだ。私は、ここでみやこ鳥と再会してからというもの、二、三日おきには両国橋の上へ佇《たたず》んだ。
 みやこ鳥の群れは、大川と神田川の合流点のまわりを離れない。東岸の向こう両国の方へ群れを離れて行く鳥は、随分まれであった。
 浜町河岸の方へ、時々一、二羽ずつ遊びに行く姿を見たが、それも直ぐ龜清の石垣の下へ戻ってくるのである。
 私は、四月の中旬まで、続けてみやこ鳥を見に行った。そして、遠い若き日の思い出に耽ったのである。桜が散って、東風が両国の橋へほこりを巻く頃になると、みやこ鳥の群れは、どこへ行ったのか、両国橋のあたりに白い洒麗《しゃれい》な姿を見せぬようになった。
 けれど、みやこ鳥は龜清の石垣の下の波の上にばかりいるのではないそうだ。それを知らなかったのは、私が寡聞であったからだ。このほど、農林省鳥獣調査の葛精一氏から話を聞くと、東京では大川のほかに、半蔵門のお堀の上に、毎年数羽のみやこ鳥が、のんびりと泳ぐ姿を見せるという。
『みやこ鳥』のゆりかもめ[#「ゆりかもめ」に傍点]は、前にも書いた通り標準和名のかもめから見ると、形も小さく色も少し違う。普通のかもめは翼羽の長さが三百四十ミリから三百九十ミリあるというのに、ゆりかもめは二百八十三ミリから三百二十五ミリくらいしかない。
 蕃殖の地は西伯利亜《シベリア》北部の寒いところで、冬になると樺太、千島、北海道、本州、九
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