られたのであるそうである。
左のようなお話も伝わっている。ほんとうに、勿体ないことである。
光格天皇は、御位をお譲りになり、上皇となられた。天保の初年の秋であった。上皇は、折りから望の月東山の松の上に昇り、夜の凉風肌を慰むる興に惹《ひ》かせられ、御殿の御階近くへ出御、光遍き秋空に、禁庭の荻叢に歌う虫の音に、ご興尽くるところを知らず、一膳を用意するよう仰せられた。そして、上皇は御階の近くへ仮の御座を設けさせられた。
近侍の公卿はこれを畏みて、御板許に供御を命ずると、その当夜の内膳司は、思いがけなきご用命に接して、何かお肴をも奉らんと厨房を捜したが、何もない。
『夕べの御食《みけ》奉りし後は、何参らせん品もございません』
と、近侍の公卿に復命した。
『けれど、せっかくの思召《おぼしめ》さるる観月のお莚に、何も奉らないのは、さぞかしご本意なく思召さるるでありましょう』
と、公卿はさびしく、つぶやいた。そこで内膳司も、いまさらながら禁裡の欠乏を嘆いたが、と言って何ともなる訳には参らず、思案に余った末、まことに恐懼に堪えない[#「堪えない」は底本では「勘えない」]次第ではあるけれど、一
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