、何ごとにも禁裡を冷たく見てきた徳川幕府の首脳部は、
『俄に、御料を増すことは罷《まか》りならぬ』
 こうこたえて、所司代の申出を斥《しりぞ》けてしまったのである。酒井は、どうすることもできないで、自らそくばくの金を献上して、御内膳の資に供えたという。
 この、朝廷の供御欠乏のありさまを、実際に幕吏が拝しあげたのは、堀田正睦が上洛した時より、少し後の事であった。
 幕末時代における禁裡のご模様を記した書物を読み、また古老の話を伝え聞けば、いまの宮中のご盛事に思い比べて、ほんとうであったろうかと疑われて、畏れ多いことばかりである。

     僅かに一万両

 孝明天皇ご即位前後、禁裡御料のことは代官小堀が代々管掌していた。代官小堀は、禁裡と仙洞御所の諸官からの申告によって、宮中一ヵ年の収支を計算し、これを京都所司代へ差し出した。所司代は、一応これを検査して江戸の幕府へ送り、その裁可を経たところで、はじめて所要の額を代官から支出させていた。
 けれど、宮中の諸費用は幕府から少しばかり支出される金や、御料地の産物位では、到底こと足りるものではなかった。であるから、代官小堀はやむを得ず別途の
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