しゃもじ(杓子)
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)度胆《どきも》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)養蚕上|簇《まぶし》
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(例)[#ここから3字下げ]
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二、三日前、隣村の老友が私の病床を訪れて、例の「しゃもじ」がまた出たという。
貴公が、出あったのか。
いや、僕ではない、近所の青年が度胆《どきも》を抜かれよった。
さては、彼の狸め、今もって頑健であるとみえるな。
怪物「しゃもじ」のことについては拙著「狐火記」のうちに書いておいたが、しかしこのような剽軽《ひょうきん》な変化《へんげ》は、二度と再び出るものではあるまいと当時考えていたから、このたび再び出現したというのをきいては、まことに今昔《こんじゃく》の感に堪えない。
今から、四十二、三年も昔のことであるから、私の青年時代である。隣村の東箱田にある村役場へ用事があって、ある日の午後から出かけていくと、折りよくこの老友も役場で雑談に耽っていた。
今は既に老友となったけれど、この老友も私と同じに歳は若く、気は盛んであった。久し振りの機会であったので、役場の小使に頼んで、濁酒一升を取り寄せた。われら二人は、豪酒であったから、僅かに一升を酌みあったのでは、腹の虫の機嫌に触れぬ。
とはいえ、季節は折柄養蚕上|簇《まぶし》に際し、百姓は働けども働けども忙しい。しかも、働き盛りの青年が、酒をあおって節季《せつき》を等閑視したとあっては、荒神さまに申しわけがたたぬであろう。
貴公、今日はこれだけで、次回を期すということにしようじゃないか。
よかろう。だがな、二人でもう五合ほしいじゃないか――。いや待て、腹の虫を抑えるのはここだ。
惜しい最後の一盃を呑み干し役場を出た。友は役場の前を出るとすぐ左手へ曲がって別れ、近くのわが家の方へ帰って行った。私は、野道を東に向かい、わが村の方へ急いだのである。
初夏の微風が、ほんのりとした頬を爽やかに吹いて快い。六月はじめの田圃《たんぼ》は麦の波が薄く黄褐色に彩《いろど》られて、そよそよとしているけれど、桑は濃緑色に茂り合い、畑から溢れんばかり盛り上がっている。なんと豊満な野面《のづら》の風景であろうと思いながら、感服して歩いた。
役場のある東箱田と、
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