私の村との、ほぼ中間に殿田用水の石橋がある。石橋の手前の方二十間ばかりは、路《みち》の両側に桑畑が森の如く茂り合っている。路の幅は、一間半あるかないか。
永き夏の陽《ひ》も、西に没して空の茜《あかね》色も消え去り、行く手のほの暗い東天低く、宵の明星がきらめき光っている。鬱蒼《うっそう》と茂る桑畑の路に歩を進めると、ここはもう淡暗だ。
理屈があったわけではない。予感があったわけでもない。桑畑と桑畑との間の、うすくらがり路へ一歩入ると、私の背中は俄《にわか》に、ぞくぞくした。
甚だ妖《あや》しき、ぞくぞく感である。これは妙だと思った途端《とたん》。
その途端に、私の眼に映った異形のものがある。路の左側の、桑畑の茂った上に、淡墨色の空を背景として、しゃもじ形の怪物が、にょろにょろと浮かび上がった。しゃもじは昔から農家で使うところの、木彫りの味噌汁しゃもじだ。
大きさは、およそ畳一枚くらい。しゃもじの柄は、くらげの足のように、ゆらゆらと揺らいでいるではないか。色は、漆黒。
真っ黒な大しゃもじは、しばし私を睥睨《へいげい》するように、のし掛からんずるようにして、宙に止まり浮いている。私は、眼に映った瞬間、仰天したけれど、咄嗟《とっさ》に一歩退いて、空を仰いでしゃもじを凝視した。
しゃもじは、私のすぐ前の空を、腕を伸ばせば届くかと思えるほど近く低い宙を、左側の畑から右側の畑へ向かって動きはじめた。柄は、猫の尻っ尾でもあるように、尖端をぶるぶると震わせながら、動いていく。
私の眼の前の、路の空間をゆるゆると横断して、右側の畑の上に移り、柄で桑樹を撫でる如くに進んで行くのである。
はっ、と思った瞬間に、しゃもじは跡型もなく消え失せた。後には、遠く星がきらめいているのみ。しゃもじの出現から消失まで、時間にして一分とはたっていまい。その間、私はわれを忘れていた。恐怖も、圧迫も、戦慄《せんりつ》も、なにも感じなかった。
おそらく、茫然としていたのであろう。
ところが、しゃもじが中空で跡型もなく消え失せると同時に、私は背中から冷水を浴びせかけられたような感じに襲われた。四肢に至るまで、全身にふるえがきた。頭は貧血を起こしたか、くらくらと眼がまわった。脳天をうたれた如しだ。
走った。路も田も、畑も堀も、分別なく一目散にわが村へ向かって走った。わが家へ転げこんだのである
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