は一入《ひとしお》ですな。ご無心で甚だご迷惑と存ずるが、せっかく参詣致したついでに、ちょっと額堂の軒下なりと拝借して雪の眺めをいたしたい。まだほかに、連れのものもご座る』
『まだ絶えて参詣人もご座らぬ。邪魔にもならぬじゃろう。ごゆっくりお休みなされ』
役僧は、風流の心を察したかのようであった。
万延元年三月三日は、黎明の頃から江戸にちらちらと雪が降った。
男坂の方から愛宕山へ、下駄ばきで傘をすぼめ、黙々として登ってくる町人然とした四人の者がある。やがて、山へ登りついて愛宕神社の前までくると、三人は玉垣の外に立ったが、一人は拝殿の広前へ立ち入って額《ぬか》づき、鈴の緒を振って祈願をこめた後、社務所の前へ立って、役僧に雪見の場所を無心したのである。
社《やしろ》に役僧というのは変であるが、当時は神仏合掌であったから、愛宕神社は円福寺で社務を執り、役僧が出張してきていた。
四人は、一列になって深い雪から下駄を抜きながら絵馬堂の方へ行った。石畳でこつこつと傘の雪を払い、袂《たもと》の雪を叩いて堂の中へ入ってから何れも髪の露を掻きあげた。
『案じたものでもなかった』
四人は、にっことした。
これは、水戸浪士増子金八、杉山彌一郎、広木松之助、大関和七郎などであったのである。さきほど、役僧からお札を[#「お札を」は底本では「お礼を」]受けたのは、大関であった。
絵馬堂の軒下には、見晴らしの茶見世で使う床机が積み重ねてあった。それを堂内へ持ち込んで具合のいいところへ腰かけた。
『ここなら大丈夫だ。だがもう、みんなもやってきそうなものだな』
大丈夫だ、とはいいながら、それでも四人はあたりを気にしながら坂の方を見まわしていると間もなく足駄の雪を蹴りながら傘を担いで登ってくる男を発見した。剣術の竹胴をつけ、伊賀袴をはいて手甲をかけている。これは、有村次左衛門であった。
『遅くなってすまぬ』
静かに、落ちついた声である。
ところへ、堂の前を山番の八蔵という親爺が通りかかって、
『おはようございます』
と会釈して行き過ぎようとしたのを、大関が呼び止めて、
『おっさん、済まないが煙草盆と茶を貰いたいがな。それと、硯箱があれば面倒だろうが拝借したい』
爺さんは茶と煙草盆を運んでおき、さらに出直して塵だらけの硯箱を持ってきた。茶を注いで飲んだ。大関は、懐紙を出して何か書きはじめた。
『雪景色に茶ばかりでもあるまい。一杯いくことにしよう』
有村は、こういって八蔵爺さんを呼んできた。
『おっさん、道の悪いのにご苦労だが酒を少々買ってきて貰いたい』
懐中から二朱金をとり出して、八蔵爺さんに渡して、
『一升あれば充分だ。それに、ちょっと摘《つま》むものを二、三品頼む。残った金はおっさんにみんなやる。』
『はい、どうも――』
爺さんは、低く頭を下げた。当時の物価では、これだけの買物についてくる二朱金の剰銭は莫大である。
五
爺さんは、酒と摘み物を買ってきた。すると有村は、
『おっさん度々《たびたび》ですまんが――実は拙者はけさ風呂屋へ褌を忘れてきた。お恥ずかしい話だが、ちょっと二筋ばかり買ってきてくれまいか』
こう言って、また一朱金をひと粒出した。有村は、爺さんが酒買いに出て行ってから、自分の褌の汚いのに気がついたからである。我が死にざまを眼に描いた。
五人は、他の同志のくるのを千秋の思いで待った。やがて第一番に海後磋磯之介と山口辰之介が絵馬堂を捜してきた。次に、関鉄之介、野村彝之介、木村権之衛門、森五六郎、佐野竹之介、黒沢忠三郎、斎藤監物、蓮田市五郎、広岡子之次郎、鯉淵要人、稲田重蔵、岡部三十郎、森山繁之助などが、ぽつりぽつりと集まってきた。
『やあ』
『やあ』
と一度は晴れやかに挨拶を交わすが、死を決した人々は、さすがに惨として一言も発しない。斬って斬って斬りまくろうとする扮装に、互いに輝く眼をやった。
斎藤監物は、紋付きの割羽織に袴をつけ、足駄をはき傘を持っていた。佐野竹之介は股引脚絆に、黒木綿のぶっさき羽織をつけ、白い紐をだらりと下げてその下に襷《たすき》を掛け、二尺九寸の大刀を差して、頭に菅笠を冠っている。森五六郎は、茶縞の乗馬袴、羽織の下に襷をかけているのが見える。
広岡子之次郎の、素肌に袷《あわせ》を着け乗馬袴に紺足袋をはき、麻裏草履を紐で結んでいる姿は粋で、そして颯爽としていた。海後磋磯之介と山口辰之介は、木綿の半合羽。そのほか、野袴の者もあれば立っ付きをつけた者あり、下駄唐傘や、菅笠に股引と草鞋《わらじ》など、まことに異形の姿の者ばかりであった。
『百鬼の図かな』
と、稲田重蔵が低く独語して、微笑んだ。
斎藤監物と関鉄之介の二人を除くほかは、大抵絵馬堂の内外で下駄を捨て、草鞋に替えて襷を上
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