た肩、剥《む》いた眼、突き出した首のやり場がない。それは、そのはずである。七面鳥は、将軍の手許へきてから以来、毎朝毎夕お茶坊主から餌を頂戴していた。ところで奥庭へ引き出されて見たところ坊主頭が五、六人揃っていたから、またいつものお茶坊主かと思案して何の恐れるところもなく、ゆるゆると歩いてきて餌をせがむのであった。
『上《かみ》の心も知らぬ七面鳥奴!』
と、将軍は内心怒りを発したが、それは無理である。
けれど、医師は本草綱目や動物書くらいは通覧しているから、七面鳥の習性は知っていた。
中に、心利きたる医師がいて、将軍の企みを読んで取り、不心得の七面鳥が使命を忘れてぼんやりとしているのを問題としないで、わざと驚いた風をして、地上を跳ね回り、両手を振って躍り回ったから、将軍はここにはじめて我が意を得た。相好を崩して喜び、子供のように笑いこけたというのである。
この道化《どうけ》た医師は、口中医某というのであるが、それから後、将軍は口中医の伺候を首長くして待った。そして、彼がくると何事を措いても七面鳥を庭へ呼び、
『傍らへ寄ってみよ、傍らへ寄ってみよ』
と、いうのである。
幼児が『お化《ば》けえ』と言って声を細くし、両の掌を眼の上へあげると、大人が『怖い怖い』と、眼を掌で塞ぐ体を、幾度も執拗に強いるのと同じことを、将軍は登城のたびに繰り返した。
口中医はついに耐えられなくなって、病と称して引きこもったそうである。
三
伊達宗城は、家老の松根図書にこんなことを話して聞かせた。
――この将軍は、癇癪の発するや、賜謁の際と雖も眼を繁く叩き、口を歪《ゆが》め、膝を上下するに、進見のもの辛うじて、失笑を禁ぜしほどであった――
さらに、家定のからだには足りないところがあったのを、福地桜痴居士が『幕末政治家』に語っている。――この癇癪は、少壮の頃、ふとしたことより男女の交わり叶わなくならせ給いたれば――と記したが、場所が場所のことにあるだけ、世間を憚《はばか》って詳述を避けている。
ある時、越前慶永が閣老久世大和守に、
『大奥では、若君の生まれるのを待ち奉っている』
と、語ったところ、大和守はこれに、
『おのれらは心しても、子の生まれ侍るには困じぬれど、上《かみ》にはそれに事かわりて、御子生まれさせ給うべきも木《も》っ根《こ》この座さねば、如何にかはせん。なさけの道おくれたる婦女共なればさるおふけなき事を祈るならん』
と、答えた。
家定の室は、島津斉彬の養女篤姫で、安政三年十一月十一日藩邸から本丸へ入輿《にゅうよ》したのであるが、将軍のからだがこんな訳であるから、篤姫一生の心身は、お察しして見て哀れである。
桜田門外に邸を持つ彦根城主井伊|直弼《なおすけ》は、安政五年四月二十二日、このような将軍の下に大老となった。井伊の擅政《だんせい》は、これを出発点とする。
当時、京都に流言が盛んに起こった。
――将軍より上奏する所の条約一条、朝廷においてご聴許ない時は、大老らは承久の故事を追い、鳳輦《ほうはい》を海島に遷《うつ》し奉るか、さもなくば主上を伊勢に遷し両宮の祭主となし奉るべし――
とか、または、
――大老は、関白尚忠と同腹にて、主上を仙洞御所に移し奉り、祐宮《さち》を擁立して新帝と仰ぎ奉り、関白をもって摂政となし、幕府の意の如く取り計らうべし――
とか、さらに、
――大老は江戸において、家老以下足軽に至るまで血判を押させ、これを引率して中仙道より西上し、彦根において在国の家老以下に、それぞれ血判を押させて徴発し総勢四千人ばかりにて上京、まず粟田宮、鷹司公父子を遠島に処し、近衛三条両公を知行所に押し込め、次に鳳輦を彦根城に遷し奉る計画であって、既に城を修繕し、領内湖浜の村々へは御用船数十艘を命じ、かつ領内米原において大屋根船一艘の製造に着手している――
などという蜚語《ひご》が乱れ飛んだ。
そして、八月上旬から毎夕、酉刻頃彗星天の西北隅に現われて戌刻に隠れ、毎暁寅刻に至って再び天の東北隅に現われる。はじめのほどは、光芒長さ三、四尺ばかり、その形箒を逆さに立てたようであったが、次第に長くなって後では幾丈にも伸びて行った。
九月に入ってからも、それが消え去らなかった。祈祷師の六物空万はこの彗星を占って、『兵乱の兆である』と上書したのである。
されば、井伊大老の謀叛を信ずるものが段々と多くなり、畏くも主上をはじめ奉り、堂上の志徒は極端に激昂したのであった。
四
一人が、社務所へきて、
『お札の[#「お札の」は底本では「お礼の」]一枚頂戴いたしたい』
『ご信心のことでご座ります』
役僧がお札を[#「お札を」は底本では「お礼を」]差し出すと、それを受けとりながら、
『ご境内の雪景色
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