やあらん、くにびとの心のつねとして、いまはとて見えざなるを、心あるものははぢずぞなん来ける。これはものによりてほむるにしもあらず。」
 このことを先生は気の毒がって、「こんなに書いてありますが」と言いわけをなさるのを、皆笑いました。お家におりおり発作をお起しになる御病気のお母様があったそうで、時間中にお迎いが来ることなどがありましたが、やがてお出《いで》にならなくなりました。
 漢文の先生は背の高い中年の太った方でした。赤いお顔をはっきり覚えています。小森先生とかいいました。御自分で、いろいろの本から抜萃《ばっすい》されたのを仮綴にして配られなどされましたが、この方も間もなくおやめになりました。
 級が進んでから中村秋香《なかむらしゅうこう》先生が見えました。お歳は五十歳位でしょうか、痩《や》せた小柄の更《ふ》けて見える方で、五分刈《ごぶがり》の頭も大分白く、うつ向いた襟元《えりもと》が痛々しいようです。厚い眼鏡の蔭から生徒たちを見廻されます。始めて出られた時、自分が好む本だからと、新井白石《あらいはくせき》の『藩翰譜《はんかんぷ》』を持って来られて、右手を隠しに入れ、左の手に本を持っ
前へ 次へ
全292ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング