われたのは西氏です。御養子紳六郎氏の姉君、赤松《あかまつ》男爵夫人の長女で登志子《としこ》という方でした。
「小さい時から知っている。林の嫁はあれに限る」といわれるのでした。
 その話は順調に進んで、結婚の翌年男の子が生れました。若い方でしたが、お気の毒な結果になりましたのは明治二十三年の秋でした。そのお子が於菟《おと》さんです。
 そのころ西氏は脳疾で、あらゆる御役を引いて、間もなく大磯《おおいそ》へ引移られました。三十年の一月に大磯で薨去《こうきょ》され、男爵を授けられました。兄が御遺族の嘱託によって、三月から筆を執って『西周伝《にしあまねでん》』を草し畢《おわ》ったのはその年の十月中旬です。
 西紳六郎氏にお子さんがありませんので、赤松家の末男が今西氏の後嗣《あとつぎ》です。それは於菟さんの叔父《おじ》に当る方でしょう。
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   寄席

 千住大橋《せんじゅおおはし》に近く野菜市場があって、土地の人はヤッチャ場《ば》といいました。その市場の左右に並んだ建物は、普通の住宅と違います。どれもがっしりした二階建で、下は全部が大抵、三和土《たたき》になっていて、住いは二階
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