壮年の頃といえば六十余年前になるでしょう。最初に兄が一家を構えたのは根岸|最寄《もより》で上野|御隠殿下《ごいんでんした》の線路のすぐそばの新築の家でした。上野の坂下の方から曲り曲って這入《はい》るのです。あたりは広々としていますし、間取も日当りも好いので、探し当てた次兄はお得意でしたが、すぐ傍を通る汽車をそれほどにも思わなかったのでしょう。
 私が始めて尋ねた時には、千住からお母様が職人を連れて来ていられました。間もなく輿入《こしい》れなさる新嫁さんのお荷物は、持って来てもらわぬようにとはいってはありますけれど、あちらはお家柄だから幾分の心構えはしなければというのでした。
「千住の家も気になるから」と、まだお兄様のお引けにならぬ夕方早くにお帰りです。「では私もそろそろお暇《いとま》にしましょう」といいますと、次兄は、「何かおいしそうなものをこしらえて置いてお帰り」といわれます。脇田という書生と臨時雇の馴《な》れぬ女との作ったものでは満足出来ないでしょう。お母様が千住からお持ちになったものはあるのですけれど、有合せの材料で何か作って、暮れぬ中にと急ぎます。乗物は人力車しかないのですから
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