を拭《ふ》き拭き笑っています。お兄様は、玄関の太い黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》に倚《よ》りかかって、肋骨の附いた軍服のまま、奥へも行かずに立っていられます。
「詰らないことをするものではない。危いではないか。暗くなってから通りへ一人で出てはいけないよ」と、むつかしい顔をしておっしゃるので、それからは家で待つことにしました。
 その頃毎朝御出勤前に牛乳をお飲みになるのでしたが、時間までになかなか間に合いません。それにあまりお好《すき》でもないと見えて、追っかけて玄関へ持って来ても、よく手を附けずにお出かけです。その頃ですからコーヒーはないのでしょう。どうかしてお飲ませしようと、いろいろのものや葡萄酒なども入れたりしたらしいのですが、お見送りして引返すと、大黒柱の許《もと》に、お盆に乗せた薄紅色の牛乳があったことなどを思出します。
 私どもが他へ移った後には、その敷地に河合の土蔵が建ったように聞きました。
[#改ページ]

   花園町の家

 私のような年になると、もはや未来はないと同じですから、思出すのはただ過去のことばかりです。
 兄が亡くなられて三十余年になりますから、その
前へ 次へ
全292ページ中149ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング