か聞きました。
 冬の夜風が強く吹いて、土の底までも凍りそうな折には、狐が出て遊ぶといわれます。畦《あぜ》をつたって走りながら鳴くので、それで声がとぎれとぎれだというのでした。そんな晩は、蒲団《ふとん》を頭から被って、小さくなって睡《ねむ》ります。夏の夜は蛍が飛びかいますが、誰も気に止めません。
 診察室の次の間に、父の机がありました。古い大きな机で、両側に幾つも引出しがあります。国から持って来ましたもので、調合台に使用するので広く場所を取りました。上には、筆硯《ひっけん》は片隅で、真鍮《しんちゅう》の細長い卦算《けいさん》が二、三本と、合匙《ごうひ》といいますか、薬を量る金属の杓子形《しゃくしがた》のが大小幾本もありました。小さい四角に切った紙を順に列《なら》べ、卦算を圧《おさ》えにして、調合した散薬を匙《さじ》で程よく分配するのです。終れば片端から外して折畳むのですが、よく馴《な》れていて、見ていると面白いようでした。幾つかを重ねて袋に入れて、患者の名を書きます。水薬の方は、傍らに三尺の棚があって、大小さまざまの薬瓶や壺などが置いてあり、その下で調合するのでした。書生などはいませんから、浸剤《しんざい》などになると母が手伝います。
 丸薬は母のお得意でした。私はいつか呑《の》み馴《な》れて、いつまでも愛用しました。兄たちから、そんなに呑んで、といわれるほどでしたが、父は何ともいわれませんかった。原料の這入《はい》った瓶には芳香酸としてありました。きっと健胃剤の類でしたろう。傍らの木の箱に、綺麗にした蛤《はまぐり》の貝殻があるのは、膏薬《こうやく》を入れて渡すのでした。その膏薬も手製です。よい白蝋《はくろう》を煮とかして、壺ようの器に入れてあり、それに「単膏」という札が貼《は》ってありました。その単膏に、さまざまの薬を煉込《ねりこ》むのですが、その篦《へら》が今のナイフのような形をしていて、反《そ》りの利く、しっかりしたものでした、何に使うのか、水銀を煉込むのを面白く思いました。銀色の玉が転《ころが》り出るのを上手に扱うのです。過《あやま》ったら大変です。そこら一面に銀色の小粒が拡がるのですから。
 或年の大雪の降った翌朝のことでした。雨戸は開いたのに、私は少し風邪《かぜ》の気味だといって床にいましたが、横目で見上げると、樋《とい》のない藁葺《わらぶき》屋根の軒から、大小長短幾つもの垂氷《つらら》の下っているのが、射《さ》し初めた日に輝いて、それはそれは綺麗です。「あれが欲しい」といいましたが、「あんな物をどうするの。もう起きなさい」と、誰もかまってくれません。やがて御飯になりました。渋々《しぶしぶ》起きてお膳《ぜん》に向っても、目は軒端《のきば》を離れません。その時、「おい、これを遣ろう」と、後に声がします。振返ると兄が、大きなコップに垂氷の幾本かを入れたのを、笑いながら出されます。「まあ、どこからお取りになりましたの。ありがとう」と、すっかり上機嫌になりました。
 兄から貰った垂氷を、私はお膳の傍に置いて、それを見ながらゆるゆると食事をしましたが、終った頃には、もうすっかり痩《や》せ細って、コップの底には藁屑《わらくず》まじりの濁った水が溜《たま》っているだけでした。その後、何か欲しいというと、「垂氷とどっちだ」と、よく笑いぐさにされました。
 雪国の越後などでは、その垂氷を「かなッこおり」といって、いたずらな子供が手拭《てぬぐい》で捲《ま》いてお湯屋へ持って行き、裸の人に附けて驚かすとか聞きました。
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   通学

 兄が洋行されてからは、千住の家はひっそりとしました。病家へ出かけられる父の後姿も寂しそうです。向島時代と違って、千住では話の合う人も少いのでしたから。その頃次兄は本郷《ほんごう》で下宿住いでした。それで兄のいられた部屋を使えといわれます。尤《もっと》もそれまでもお留守の時は、そこで本を見て時を過したので、そろそろ退庁の時刻になると、そこらを片附けます。取散らしてあるのはお嫌いでしたから。それで洋行中も、机の上の本を積重ねようとしては、ああお留守だったと、がっかりするのでした。
 本棚の片隅には、帙入《ちついり》の唐本の『山谷《さんこく》詩集』などもありました。真中は洋書で、医学の本が重らしく、一方には馬琴《ばきん》の読本《よみほん》の『八犬伝』『巡島記』『弓張月《ゆみはりづき》』『美少年録』など、予約出版のものです。皆和本で、それぞれの書名が小口《こぐち》に綺麗に書かれたのが積重ねてあって、表紙の色はそれぞれ違いましたが、どれも皆無地でした。その頃流行したのですから、随分出たものでしょうが、その後そんな本は古本屋でも見たことがありません。それよりあの本棚にあれほどあった予約本がどうなったの
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