でしょう。幾度かの転居で知らぬ間に見えなくなり、観潮楼の本棚にはありませんかった。後年兄が『八犬伝』の序文を書かせられた時にも、その昔愛読したことをいっております。『馬琴日記|鈔《しょう》』の跋文《ばつぶん》にも、馬琴に向って、君の真価は動かない、君の永遠なる生命は依然としている、としています。つまり贔屓《ひいき》なのでしょう。その予約本の行方《ゆくえ》については、ついに聞きませんでした。
 その内私は、福羽《ふくば》氏のお勧めで女学校に入りましたので、本郷の次兄のいられた一室に、祖母と一緒に住むようになりました。入学試験があるというのですが、千住の小学校を出たばかりで世間知らずで、物は試《ため》しということがあるからと受験しましたら、合格したのでした。
 女学校では生徒の年がさまざまで、若い人もあれば、一方には地方から選抜されて来た年嵩《としかさ》の人もありました。私などは風体が目立って、野暮臭《やぼくさ》いと皆が笑ったでしょうけれど、当人は平気なものでした。髪は銀杏返《いちょうがえ》しが多く、その中に一、二人だけ洋装断髪の人がいました。授業の内では語学は珍しいのですが、国語漢文などは抜萃《ばっすい》のものばかりで、張合《はりあい》のないことでした。
 始めの下宿は二階のある家でしたが、近火《ちかび》があったので、学校に近い平家の下宿に移りました。そんな世話は皆次兄がなさいます。御自分も一緒に引越されます。引越など造作もないと思っていられます。次兄の室は別ですから、夜勉強が済んでお茶でもという時には呼んで来て、その日にあったことなどを話合います。祖母も兄の時から下宿住いには馴《な》れていられますから、苦になさいません。どこの家でも食物などは、それぞれに癖のあるもので、今晩はとろろ汁です、などといわれると困りました。私は食べたことがないものですから、箸《はし》を取りかねます。そんな日には次兄は、どこかで鮓《すし》など買って来て下さるのでした。祖母は私どもの学校の留守には、いつも裁縫をしていられます。千住から次々と仕事を持って来て、少しも手をあけてはいられません。どうかして途絶えた時には継ぎものです。古い絹の裏地など、薄切れのしたのに継《つぎ》を当てて細かに刺すのです。年寄には軽くてよい、新しい金巾《カナキン》などは若い者のにするがよい、といって、決してお使いにはなりません。或時父がそれを見て、全く二重ですねえ、と目を見張らせます。まあ出来上りを見て下さいと、笑ってお出《いで》です。やがて張り上げると、すっぺりして立派になるのでした。昔から何に依らず質素にと心懸けて、物を粗末にはなさいません。
 私は手紙にいろいろのことを書いては、西洋の兄へ出します。学校のこと、下宿のこと、その他さまざまです。間もなく便があって、下宿はやめるがよい、おばあ様にもお気の毒だし、女の子の下宿は好ましくない、というのです。ちょうど学期の終の時でしたから、引上げて千住へ帰りました。
 これからどうして通わせようかということになりましたが、兄の出立後は、供をしていた与吉という車夫が父のになっていました。頑丈《がんじょう》な男でしたが、年を取っており、無口で無愛想なので兄のお気に入りでした。人込《ひとごみ》だろうが、坂道だろうが、止めろ、と声を掛ければすぐ止めます。用事の外は口を開きません。それが素朴でいいとおっしゃいましたが、父の病家廻りのお供としては、先々では喜ばれませんかった。それに父の病家は近くが多く、車で行くのは田舎《いなか》ばかりですから、女の子の供にはあれがよかろう、ということになりました。与吉の家内はいつも勝手の手伝いに来るので、張物《はりもの》や洗濯《せんたく》も上手にします。人の噂《うわさ》では、商売をしていたとかいいました。器量もよくないし、髪の毛の薄い小がらな女でしたが、正直なので母は喜んで使われました。与吉のことを、いつでも、「よきさあ、よきさあ」と呼びました。その頃学校は方々へ移る時で、上野の両大師の際へ引越したので、千住から通うのには近くなったので好都合でした。尤《もっと》もそれも少しの間で、また一橋《ひとつばし》へ引移り、ついに卒業まで、車でそこへ通ったのです。
 今まで噂に聞いた道々を、毎日車で通います。野菜市場の混雑を過ぎ、大橋を渡って真直に行けば南組の妓楼《ぎろう》の辺になりますが、横へ曲って、天王様のお社《やしろ》の辺を行きます。貧民窟といわれた通新町《とおりしんまち》を過ぎ、吉原堤《よしわらづつみ》にかかりますと、土手際に索麺屋《そうめんや》があって、一面に掛け連ねた索麺が布晒《ぬのざら》しのように風に靡《なび》いているのを珍しく思いました。兄のいつもお話になった秋貞《あきさだ》という家の前は、気を附けて通りますが
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