、叱《しか》られはすまいかという心配と、穿《は》いているぽっくりという下駄《げた》、赤塗の畳付《たたみつき》で綺麗《きれい》な鼻緒がたって、初めは他所《よそ》ゆきだったのが、古くなってすっかり減ってしまい、庭下駄になっていましたが、昔ですから塗が堅く、赤色もそれほど剥《は》げてはいませんかった。その前鼻緒が弛《ゆる》んで来てその歩きにくいこと。それをお話するにはお兄様の様子が、どうもいつもと違ってつぎほがないので、我慢して指でまむしをこしらえて、とぼとぼ附いて行きました。
 田圃の中には幾坪か紅や白の蓮《はす》が咲いて美しいのも見えますが、立止りもしませんかった。半道ほども行った頃に、大橋際の野菜市場の辺から、別れた土手と一緒になって、綾瀬《あやせ》の方へ曲ります。その岐路に掛茶屋《かけぢゃや》がありました。「くずもちあり」とした、小さな旗が出ています。土手からすぐに這入《はい》られるようになっていても、土手下から普請の時の足場のようにして、高く高く掛出しになっていました。客は誰もおりません。
「休もう。」
 お兄様がお上りになったので、私も上りました。煙草《タバコ》を吸っていたお婆さんは立上って、
「いらっしゃいまし。」
 私の脱いだ下駄を見て、「お嬢さん、さぞ歩きにくかったでしょう。ちょっと直して上げましょう。」
 私は嬉《うれ》しくて、「どうぞ」とたのんで安心しました。丸太を組んで縄で結《ゆわ》えた手摺《てすり》に寄って眺めますと、曇っていてもかなり遠くまで見えます。田圃は青々と濃い絵の具で塗ったように見え、農夫たちが幾人か、起《た》ったり蹲《しゃが》んだりするのは田草取りなのでしょう。処々に水が光っています。隅田川《すみだがわ》も見えはすまいかと、昔住んだ土地がなつかしくて見廻しました。綾瀬を越して行くと向島《むこうじま》の土手になって、梅若《うめわか》や白髭《しらひげ》の辺に出るのです。お兄様はと見返ると、板張《いたばり》に薄縁《うすべり》を敷いたのに、座蒲団《ざぶとん》を肩にあて、そこらにあった煙草盆から火入れを出し、横にしたのを枕《まくら》にして、目を閉じて寝ていらっしゃいます。私は目の下に吹井戸《ふきいど》のあるのに気がついて、行って見たくてなりません。そっとお兄様の傍へ行って、
「きれいな吹井戸が下にありますが、見て来てもようございますか。」
 聞きましたら、目を閉じたまま、「ああ行ってお出《いで》」と仰しゃるので、喜びはしましたが、お婆さんが鼻緒を直していますので、履物《はきもの》がありません。
「吹井戸を見たいのだけれど」といいましたら、お婆さんはそこに脱ぎ捨ててある草履《ぞうり》をさして、「それを穿いていらっしゃい。滑りますよ」といいます。
 足の倍もあるのをはいて、丸太を段にした狭い坂をそろそろ下りて行きます。古い井戸側は半分朽ちて、まっ青な苔《こけ》が厚くついていて、その水のきれいなこと、溢《あふ》れる水はちょろちょろ流れて傍の田圃へ這入ります。釣瓶《つるべ》はなくて、木の杓《しゃく》がついていました。胡瓜《きゅうり》が二本ほど浮いて動いています。流には目高《めだか》でしょう。小さな魚がついついと泳いでいます。水すましも浮いています。天気つづきで田にはよく稲が育って、あちこちで蛙《かえる》がころころ鳴いて、前に長く住んだ向島小梅村の家を思い出しました。いつまでも飽きずにじっとしていましたら、上から「おい、おい」とお呼びになります。「はい」と答えて、急いで上りましたら、
「葛餅《くずもち》が来たよ。お食べ。」
 お婆さんの傍にある手桶《ておけ》の水で手を洗い、さて坐って見ますと、竹箸《たけばし》が剥《は》げて気味がわるいので、紙で拭《ふ》いて戴《いただ》こうとして、「お兄さんは」と聞きますと、
「おれはいい。それもお食べ」と、お茶を飲んでいらっしゃいます。「まさか」と思わず笑いました。家を出てから初めて笑ったのです。葛餅はそれほどおいしくもありませんでした。
 暫くしてから、「そろそろ帰ろうか」と仰しゃるので、「それをお土産《みやげ》にしたらどうでしょう。」
「そんなら、もう少し足して」と、買い足して、経木《きょうぎ》に包んでくれたのを、ハンケチに包んで持ちました。
 下駄は穿きよくなりますし、お兄様は物を仰しゃるし、何だか足も軽くてよい気持でした。帰りは土手の左手|遥《はる》かに火葬場の煙突が立っていますが、夜でなければ煙は見えません。お兄様の機嫌もよいようなので、
「さっきのあそこからは、向島の方は見えないようですよ。曇っているせいかしら。」
「見えないかも知れない、曲っているらしいから。今度は堀切《ほりきり》の辺へ行って見ようね。」
「私には歩けないでしょう。」
 そんなことをいい合いました。

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