私が八つ位の時です。夏の事で、千住《せんじゅ》の家の奥庭の柿の花の頻《しき》りに降る下で、土いじりをして遊んでいました。お父さんは植木が好きで、かなり鉢数を持っていられました。買ったものはなく、何か由緒《ゆいしょ》のあるものばかりで、往診に行った時、遠い山中で掘って来たとか、不治と思った患者が全快したお礼に持って来たとかいうようなので、目ぼしいのは、お邸《やしき》の殿様からいただいた松の鉢植でした。あまり大きくないのですが、かなりの古木らしく、その幹はうねうねと曲っていました。殿様も初めは大切になさったのが、虫がついたか葉の色もわるくなったので、「これは不用だから持って行ったらどうか、医者の手腕でなおしたらよかろう」と、笑いながら下すったというのです。父は殿様の侍医をしていました。
 尤《もっと》も向島《むこうじま》に住んでお出《いで》なのが、お年寄で食養生をなさるのに御不自由だというので、市中へお移りになるという噂《うわさ》がちらちらある頃でしたから、弱った植木などは、どうでもよかったのでしょう。
 お父さんは大喜びで車で持って帰り、人にも聞いたり、自分でも種々工夫したり、その手入にかかっておりました。千住で郡医となって、向島へは折々御機嫌伺いに出るのでした。開業していましたが、病人が来ても植木にかかっている時は、なかなか手離そうとなさいません。書生《しょせい》に、「先生、もうよほど待たせてありますから」と催促せられて、やっと立上るのでした。お母さんなどは、「ほんとにお父さんにも困るね。いつも土いじりばかりなすって、堅い手をしていらっしゃる。きれいな柔《やわらか》い手を、人はお医者のようだという位なのに」といっておられました。
 それでも松の鉢植はどうやら持ち直して、新芽を吹いた時の喜びは大したものでした。鉢も立派でしたから、それを客間の床の台に据えて、その幹を手で撫《な》でながら、「おれは植木の医者の方が上手かも知れない。蟠竜《はんりょう》というのはこんなのだろう。これを見ると深山の断崖《だんがい》から、千仞《せんじん》の谷に蜿蜒《えんえん》としている老松《おいまつ》を思い出すよ」と仰《おっ》しゃるので、皆その大げさなのをおかしいとは思いながら、ただ「ほんとですね」とだけ申しました。相槌《あいづち》を打たぬのがお気に召さないのでした。
 その外に石榴《ざくろ》の鉢植がありました。石榴は直水《じかみず》を嫌うからと、鉢が大きな水盤に入れてありました。それに実がいくつか附いた時などはお喜びにもなりますが、誰にでも褒《ほ》めてもらいたいのでした。どこからか古い雛段《ひなだん》を出して来て順序よく並べ、暫《しばら》くするとまた並べ替えるのでした。大釜《おおがま》を古道具屋から買って来て、書生に水を一ぱい張らせます。夕方植木に水をやるのは私の役でした。そんなですから私も自然|見真似《みまね》をして、小さな鉢に松や南天などの芽生《めばえ》を植え、庭に出る事が多いのでした。
 或《ある》曇り日の午後、ふと出ていらしたお兄様は、杖《つえ》を手に庭の飛石を横ぎるとて、私の木蔭《こかげ》にいるのを見て、「おい、行かないか」と声をおかけになりました。「はい」と御返事をして、そのまま手の土を払って附いて出ました。古びた裏門を出ると、邸の廻りに一間幅《いっけんはば》位の溝《みぞ》があって、そこに吊橋《つりばし》が懸っています。それを下《おろ》して、ずんずん右の方にいらっしゃいます。左はそこらの大地主の広い庭で、やはり溝が廻《めぐ》って、ぽつぽつ家つづきなのです。縦の小路《こうじ》を曲ると宿場の街に出ます。右の方は崩れかかった藁葺《わらぶき》の農家が二、三軒あるだけで、あとは遠くまで畠や田圃《たんぼ》が続き、処々の畦《あぜ》には下枝をさすられた榛《はん》の木が、ひょろひょろと立っています。
 なかなか足がお早いので、兵児帯《へこおび》が腰の辺で絶えず動きます。私は長いおかっぱをゆらゆらさせて、離れまいと附いて行きます。木の狭い橋を渡って、土手へお上りになりました。その堤は毎日通う小学校の続きになるので、名高い大橋に対して小橋という、学校の傍の石橋の下《しも》になって、細い流《ながれ》が土手下を通っています。私は近くを散歩なさるのかとばかり思って、傍へ寄って、「お兄さん、遠くまでいらっしゃるの」と聞きました。大好きなお兄様ですけれど、何だか遠慮で、あまり話などはしないのでした。それまで何も仰しゃらなかったのが、「いや」と一言だけで、左へむけてお歩きになります。この辺はちょっと家がありますが、また両側に何もない長い長い土手が続くのです。あまり通る人もありません。私は心細くなりました。お母さんにお断りもしないで、不断著《ふだんぎ》のままで外へ出たのを
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