鴎外の思い出
小金井喜美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)老耄《ろうもう》して

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|甲高《かんだか》い

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《たく》って

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\おもしろき事
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    序にかえて

[#ここから3字下げ]
あやしくも重ねけるかなわがよはひ
    八十四歳一瞬にして
[#ここで字下げ終わり]
 これは今年の正月の私の誕生日に、子供たちが集った時に口ずさんだのです。
 いつか思いの外に長命して、両親、兄弟、主人にも後れ、あたりに誰もいなくなったのは寂しいことですが、幸いに子供だけは四人とも無事でいますのを何よりと思っています。近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄《ろうもう》して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿後《ぼつご》解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡《こんせき》もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。
 それにつけても、割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。元来強健という体質ではなく、学生時代に肋膜炎《ろくまくえん》を患ったこともありましたし、その作の「仮面」に拠れば、結核もせられたらしく、それから長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地《ばんち》にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です。晩年の頃に、たまたま尋ねますと、いろいろ心遣《こころづか》いをなさるので、それがお気の毒に思われてなるべく伺わず、伺っても長坐せぬようにと心懸けたのですから、その頃の動静はよく存じません。尋ねて帰宅してから、いつも主人と古い時代の頃の噂《うわさ》をしたことでした。
 主人は兄より二歳の年長です。昔からの名代《なだい》の病人で、留学中に入院したこともあり、多くの先生方にも診《み》ていただきましたが、はかばかしくありません。その病症も不明なのです。帰朝後もその職に堪えられるかどうか案じられたほどで、誰もがいつ死ぬかとばかり思っていました。同僚中で結核の重症といわれた山極《やまぎわ》氏と、どっちが先だろうと較《くら》べられ、知人の葬式に顔を合わす度に、今度は君の番だろう、といわれるのは入沢《いりさわ》氏でした。
 それがいつともなく快方に向い、知人の誰より長命したのですが、ただ一切あたりに心を使わず、体の動く間は研究室に通って、自分の思うことだけを心任せにしていたのがよかったのでしょう。家族の者も、主人に心配させるようなことは一切しませんでした。晩年は、世にある方たちには思いも寄らぬ少額の恩給だけでの生活でしたが、家内中の誰も、それを不足だとは思いもしませんかった。いわば主人は心が平《たいら》かだったので、それが保健上何よりの条件と思います。あの何事にも忍耐強かった兄が、身体の衰弱のためもありましょうが、晩年には時々|甲高《かんだか》い声も出されたと聞いた時には、身も縮むように思いました。
 けれども今になって、詰まらぬことは申しますまい。割合に短命だった一生に、兄はあれだけの仕事をせられたので、それが永久に残るのだと思えば、この上の満足はありますまい。本人も地下で微笑していられるでしょう。謹んで兄の冥福《めいふく》を祈りましょう。
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ながらへてまたかゝるもの書けるよと
    笑みます兄のおもかげ浮ぶ
命ありて思ひいだすは父と母
    わが背わが兄ことさらに兄
ゆきまして三十《みそ》とせあまりいつもいつも
    忘るゝ間なく君をこそおもへ
[#ここで字下げ終わり]

  昭和三十年盛夏
[#地から3字上げ]小金井喜美子
[#改丁]

   くずもち
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