やがて家へ近寄りますと、叱られはすまいかとびくびくしていました。裏門口に立っていらしったお母さんは、「あ、お散歩のお供をしたの。よかったね。」
 お兄様は家へ這入っておしまいになりました、私は包を、「はい、おみやげ」と出しました。
「何なの。」
「葛餅ですの。」
「まあ、そんな風をしてあそこまで行ったの。あなたまでどこへ行ったかと案じて、さっきからここにいたのだよ。よかったね」と仰しゃいました。
 夜食後に四角なのを三角に切って、皆で分けて食べましたが、お父様は、「おれは川崎の大師《だいし》で食べた事があるよ。そこが本家だといっていた。」
 お母様は、「それで思い出しました。亀井戸《かめいど》の葛餅屋は暖簾《のれん》に川崎屋と染めてありました。柔いからお祖母《ばあ》様も召上れ。」
「有難う。だがこれはお国のと違って黄粉《きなこ》がわるいね。」
 またお祖母様のお国自慢と皆笑いました。お兄様はやっと思い出したらしく、「そうだ、遠足して池上《いけがみ》の本門寺《ほんもんじ》の傍の古い家で弁当を遣《つか》って休んだ時、友達が喜んで食べたっけ。由緒《ゆいしょ》のあるらしい古い家だった。」
 何ならぬ品も静かな夜の語り草となったので、お土産に持って来た私はにこにこ笑っておりました。
 お兄様は早く大学を卒業なすったのですが、まだ若いから何か今一科勉強したいとお思いになっても、経済上の都合もあってそうもならず、陸軍へ出たらと勧める人もありますが、同級生が貸費生《たいひせい》としてはや幾人か出ているのに、階級のやかましい処へ今更どうかともお思いになるので、お気の毒にも思案に余っていらしったのでした。ここに書いたのはその頃の或半日の事でした。
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   赤インキ

 森の家が向島小梅村に住んでいたのは、明治十二、三年頃ですから、兄は十七、八、私は十ほど年下で七つ八つ位でしょう。その頃兄は頻《しきり》に水墨画に親しんでいられました。私の学校通いに被《かぶ》ったあじろ笠《がさ》に、何か画《か》かれたのもその頃でしょう。どうも先生に就《つ》かれたようには思われませんから、何かお手本を見て習われたのだと察します。お画きになるのは休日の静かな午前などで、その絵は重《おも》に四君子《しくんし》などでした。とりわけ蘭《らん》が多く、紙一ぱいに蘭の葉の画いてあるのもありました。種々な絵の中に、牧童が牛の背に乗って、笛を吹いている顔が可愛らしいので、何枚も画いてもらい、「もっと可愛くして頂戴《ちょうだい》」といって笑われた事もありました。
 程近い旧藩主の邸内に、藩の人たちが御末家《ごばつけ》と呼ぶお家がありました。御親類つづきなのでしょうか、若い美しい御後室《ごこうしつ》と幼い姫様とがお住いでした。綾子様《あやこさま》、八重子様《やえこさま》と申すのですが、皆おあや様、お八重様といいました。父が御診察に伺った時、飾ったお雛様《ひなさま》を拝見して来て、「実に見事なものだよ。御願いして置いたから拝見にお出《い》で」ということなので、母と一緒に伺いました。お仮住いなので広くはありませんが、床の間に緋毛氈《ひもうせん》をかけた一間幅《いっけんはば》の雛段は、幾段あったでしょうか。幾組かの内裏雛、中には古代の品もありました。種々の京人形や道具類がぎっしり並んでいて、あまり立派なので、私は物もいわずに、ただ見詰めておりました。
「よくこれだけのお品を、お国から傷《いた》めずにお持ちになりましたこと。」
「私どもがそこに住んでいましても、蔵の品はいつか知らぬ間に減るばかりで、土地を離れたらどうなるやらと、この子もいる事ですから、こんな手狭《てぜま》なのに送ってもらいました。」
「さぞかしお荷造《にづくり》が大変でございましたでしょう。皆よくわかった人たちばかりで、悪い事などいたしますまいに。」
「いいえ、そうでもございません。或朝ふと気がつきますと、金蒔絵《きんまきえ》の重箱が、紐《ひも》で縛って蔵の二階の窓から、途中まで下《おろ》しかけてありました。きっと明るくなったので止《や》めたのでしょう。」
 御後室は、にっこりお笑いになりました。人の心のとかく落附《おちつ》かぬ頃、御主人はお亡くなりで、よくお世話する人もなかったのでしょう。その頃御本家では、葵《あおい》の御紋を附けていられた夫人がお亡くなりで、お子様もなく、寡居《かきょ》しておられました。藩出身で今は然《しか》るべき地位にある人が、「ちょうどお似合に思われるから、お後添《のちぞえ》に遊ばしたら」とお勧めしたそうでしたが御承知にならず、あや子様は何かと人の口がうるさいからと、丈《たけ》なす黒髪を切っておしまいになりました。お年は十九なのでした。誰も惜《おし》まぬ人はありません。その小さいお姫様を
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