よく育ててと、御熱心なのは涙ぐましいようでした。長州からお輿入《こしい》れになったとの事ですが、ただ美しいといっても、艶《えん》なのと違ってお品よく、見飽きないお姿でした。美しいものの好きな母は、いつも歎称しておりましたが、後年兄の嫁をという時に、「おあや様のような方はないものかしら」といって、父に笑われました。
お白酒をいただき、下の段にあったお道具を下さったのを持って帰りました。机の上に並べましたが、ほかには何もありません。
「お雛様でなくても、何かあった小さい品を、詰合せにして持って来ればよかったわね。」
祖母はつくづくいわれました。森は小藩の医者の家で、質素に暮していたのでしたから、東京へ出るといっても、少しの荷物しかありません。家内中|戦《いくさ》にでも出るような意気|込《ごみ》なのでしたから、お雛様を飾ろうなどとは、夢にも思わなかったのでしょう。
「お兄さんにお雛様を画いておもらいなさい」といわれてお願いしましたが、「そんな絵は画けないよ」といわれました。それでもとうとう画いてもらったのを壁に針で止め、桃の枝を探して生けましたら、母が豆妙《まめいり》を造って下すったので、やっと御雛様らしくなりました。
庭の菖蒲畑の花が綻《ほころ》ぶ頃でした。私は新しい単衣《ひとえ》を造って下すったのを著《き》て見ました。そのままじっとしてないで、縁先の下駄を突《つっ》かけて、飛石づたいに菖蒲畑の傍まで来ましたら、生垣《いけがき》を潜《くぐ》って大きい犬が近寄って来ました。その時つぶてが、いきなり縁先から飛んで来て、私に当ったと思ったら、赤インキの壺《つぼ》でした。蓋《ふた》が取れて、インキは私の上前《うわまえ》一ぱいにかかったのです。「あ」という声が三個所から起りました。一番には私、次は縁に立ってこっちを見ていられた母、次は縁で机に向っていられたお兄様でした。私は呆《あき》れて泣きもしませんでした。お兄様は立上って、
「わるかったね。よくそこらを荒す犬が来たから、机の上の物を手当り次第に投げたら、運わるく赤インキだった。新しい著物だと喜んでいたのに可哀《かわい》そうに。」
「なに粗末の品だからいいよ。」
母は何気なくいわれました。粗末でもなかなか衣類など新調するのではありませんから、さぞ困ったと思われたでしょうが、何があるのとも仰しゃいません。兄上には遠慮していられるのです。何品でしたか、鼠色《ねずみいろ》で一面に草花の模様でした。袖口《そでぐち》だけ残して、桃色の太白《たいはく》二本で、広く狭く縫目《ぬいめ》を外にしてありました。
「ほととぎす殺しという所だね」と次兄のいわれましたのは、後年その話の出た時でした。それは殿の愛妾《あいしょう》ほととぎすを憎んで、後室が菖蒲畑の傍で殺すという歌舞伎狂言でした。立っていたのでインキは流れて裏には沁《し》みず、裁縫の器用な祖母が下前《したまえ》と取りかえて、工夫をして下すったので、また著られるようになりました。
兄はその時写生をしていられたのです。松に石灯籠《いしどうろう》の三つもある庭を、正面から斜面から、毛筆で半紙に幾枚も画かれたのでした。一枚は貰《もら》って置きましたが、いつの間にか見失いました。遠い昔のお話です。
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衛生学
私と兄|鴎外《おうがい》とは年が十ばかり違いますから、物心のついたころは十五、六でしたろう。もう寄宿舍に入っていられました。西《にし》氏のお世話になられたのはその前です。私の記憶には何もありません。母や祖母がお国の話をする時に、梁田《やなだ》、水津《すいつ》、大野などの姓を聞くと、西氏の御親戚《ごしんせき》だと思う位でした。後に私は祖母に連れられて、西氏の三十間堀《さんじっけんぼり》のお家へ泊りに行きました。夫人(石川氏)は佐佐木信綱《ささきのぶつな》氏の歌のお弟子でした。
西氏が前に家塾育英舍を開かれた時の通規に、「読書はなるたけ黙読せよ。昼日は時ありて朗読すとも可なり。唯隣座の凝念思索の妨《さまたげ》をなすことを得ず」「人の傘笠《さんりゅう》を戴《いただ》き、人の履物をはくことを許さず。紙筆《しひつ》、硯机《けんき》、煙管《キセル》、巾櫛《きんしつ》の類より、炉中の火、硯池《けんち》の水に至るまで、その主の許可あるに非《あら》ずして使用することを許さず」など、事細かなもので、門人ではなくとも置いて戴いて、外に人もいられたのでしょうから、若いお兄様には窮屈だったろうと思います。
次兄は十一、二歳の頃、漢学を習いに、因州の儒者|佐善元立《さぜんもとたつ》という人の所へ通っておりました。出来がよいと直に特別|扱《あつかい》にされます。或日塾の祝日に本邸から藩主代理として来られた川田佐久馬氏が、次兄の態度が気に入ったとて話を
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