暫くしてから、ほんとに連れて行かれました。
 お河童《かっぱ》頭に繻子《しゅす》の袴《はかま》、目ばかり光らした可愛げもない子供でした。お兄様のお供をするというのが嬉《うれ》しくて、喜び勇んで出かけたのです。牛込《うしごめ》のお邸《やしき》には黒くて厳《いか》めしい大きな御門がありました。昔の旗本《はたもと》のお屋敷のようです。お座敷へ通っても私はただ後の方に小さくなって、黙って坐っていました。家へ帰ってからお母様に、「薄暗い広いお座敷で、頭の禿《は》げたお年寄が、幅のひどく狭い袴をはいて、芝居の下座《げざ》でつけを打つ男のような恰好《かっこう》をしておられましたよ」と話しました。
 芝居だって猿若座《さるわかざ》を一度か二度しか見ていないのですが、何だか様子が違って見えたのでしょう。
「まあこの子は。人様の噂《うわさ》をするものではありませんよ」と戒められました。
 お兄様は、「黙っていると思ったら、そんな風に見ていたのか」とお笑いになりました。
 その牛込の帰りには長瀬時衡《ながせときひら》氏のお宅へ寄りました。飯田町《いいだまち》辺でしたろう。やはり陸軍の軍医をお勤めで、詩文のお嗜《たしなみ》があり、お兄様とはお話が合うのでした。ここでは気安く種々のお話をなさるし、奥様も歌をおよみになるので、優しく話しかけて下すって、お庭の石灯籠に灯の入るまでゆっくりしておりました。後に奥様は短冊を書いて下さいました。赤十字をおよみになったので、
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仇《あだ》みかたたすけすくひて万代《よろずよ》に
    赤き心を見する文字かな
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 綺麗《きれい》にお書きで、それは近年までありました。
 石黒氏に贈った幅はどうなりましたろう。私を連れて行かれたのは、角立《かどだ》たないようにとのお心遣いだったかも知れません。その日には、それについてのお話はありませんでした。後にはお兄様も、石黒氏と立入ったお附合《つきあい》はなさらなくなったようです。
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   写真

 向島《むこうじま》に住んだ頃は、浅草へ行くというのが何よりの楽しみでしたけれど、歩いて行く時は、水戸様《みとさま》の前から吾妻橋《あずまばし》を渡って、馬道《うまみち》を通って観音様の境内へ入るので、かなりの道なのです。でなければ渡しを渡って花川戸《はなかわど》へ出て、待乳山《まっちやま》を越して、横手から観音様へ這入《はい》ります。母や祖母と出ると時間もかかりますし、留守居も頼まねばならぬので、たまたまにしか連れて行ってもらわれません。
 たしか尋常小学の三年生の時でしたろう。学校の成績がよくて、首席になったので、私も大喜びでしたし、家内中の誰もが、「よかった、よかった」と褒《ほ》めて下さいました。
 その晩のことです。お母様が、「まあ、お喜びよ。今度の日曜には、兄様が浅草へ連れて行って下さるとさ」とおっしゃいます。
「え、ほんとう。」
 私は目をくりくりさせて驚きましたが、よく聞くと、どういうお考か、行くのは私だけだとのことで、心配になりました。
「お母様も一緒だといいのだけれど」とはいいましたけれど、とにかく嬉しいので、ただその日が待たれました。
 日曜日は四月始めのよく晴れた日でした。
「さあ行こう」と、お兄様は下駄履きで先に立たれます。
「お土産《みやげ》をね」と、祖母様《ばあさま》が目送されます。
 毎日急ぎ足で学校へ通う道をぶらぶら歩いて、牛《うし》の御前《ごぜん》の前を通り、常夜灯のある坂から土手へ上り、土手を下りて川縁へ出ると渡し場です。ちょうど船の出るところでした。
 私は真中にある仕切りに腰を下します。乗合《のりあい》はそんなにありません。兄様は離れたところに立っていられます。中流に出ますと大分揺れるので、兄様と目を見合せて、傍の席を指しますが、首を振って動かれません。
 ここから見る土手は、花にはまだちょっと間があるので、休日でもそんなに人通りがありません。ただ客を待つ腰掛茶屋《こしかけぢゃや》の緋《ひ》の毛氈《もうせん》が木の間にちらつきます。中洲《なかす》といって、葦《あし》だか葭《よし》だかの茂った傍を通ります。そろそろ向岸《むこうぎし》近くなりますと、芥《ごみ》が沢山流れて来ます。岸に著《つ》いて船頭が船を杭《くい》に繋《つな》ぐのを待って、桟橋めいたものを伝わって地面に出ます。
 花川戸は静かな通りですが、どの家にも下駄の鼻緒の束が天井一杯に下げてあります。
「今日は待乳山はよそうね」といわれて頷《うなず》きました。そこは少しの木立と碑とがあるだけで、見晴しもないのですから。
 いつか浅草寺《せんそうじ》の境内で、敷石の辺から数珠屋《じゅずや》が並んでいます。奥の方のは見本でしょうが、拳《こぶ
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