んこ》を懐《ふところ》から覗《のぞ》かせて歩くのです。
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雨はしょぼしょぼ、もみじ番所をすたすた通れば、「八、きのうの女にもてたか」「大《おお》もてよ」。わるい道ではないかいな。
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 ただこれだけの歌ですが、わるい道という所から、裾《すそ》を高々と※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《たく》って、白い足に続いた白い腹まで出して、ゆるゆると歩き廻るのです。少し鈍い子のようで、恥しそうな顔もしませんのは、たびたび踊らせられるのでしょう。酔った人たちは手を叩《たた》いて囃《はや》すのでした。いくら土地柄とはいえ、なぜこんな踊をさせるのだろう。お兄様もどこかで見て御存じなのかしら、それともこんなお客たちが喜ぶだろうと思って仰しゃったのかしら。私はとつおいつ考えていました。
「おい、小六さんは踊らないのかい」と肩を叩く人があっても、小六は見向きもしませんかった。
 お医者の中に、この土地で唯一人の医学士がありました。敏捷《びんしょう》そうな三十余りの人です。後になって、その人が小六を妻にしました。養子なのでしたが、家附《いえつき》の娘を棄《す》てたのです。その娘は私の学校友達でした。資産のある家でしょう、後にまた養子が来ました。それは優しい一方の人らしく、患者もあるようでしたから、きっと仕合せでしたろう。小六は妻になってから、二、三人子供が出来たらしく、後年私の子供が大学に這入《はい》った時、小六の子供もいるように聞きました。どんなお医者になったでしょう。
 今は都内の劇場が、ストリップショウの看板を掛けて人を呼び、雑誌の口絵にヌードがなければ売れないという時代です。こんなことも遠い遠い昔語りとなりました。
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   海屋の幅

『古書通信』の二月号に出ていた閑人閑語の「オキナのヘコヘコ」という条を見て、思わずほほえみました。貫名海屋《ぬきなかいおく》の「赤壁賦《せきへきのふ》」を訛《なま》ったというのですが、それを読んでまた遠い昔のことを思出しました。
 お兄様がまだ若くて、陸軍へ出られて間もない明治十五年頃でしたろうか、千住の家で書斎にお使いの北向の置床《おきどこ》に、横物《よこもの》の小さい幅《ふく》を懸けて眺めておられました。「流芳」の二字が横書にしてあります。ほかの幅と様子が違うので、訝《いぶ》かし気《げ》に覗《のぞ》きましたら、「これは貫名海屋という人の書で、南画の人だけれど、書にも秀れているのだよ」と教えられたのです。
 こんな話を聴かされますと、私も何だかそれが気に入って、飽かず見詰めるのでした。
 狭い床でしたけれど、そこには時々変った幅が懸けられます。奥原晴湖《おくはらせいこ》の密画の懸けてあったこともあります。晴湖は明治の初めに東京に出て、下谷《したや》に住んで、南画の名手として知られた女の画家でした。佐藤応渠《さとうおうきょ》の半切《はんせつ》もありました。
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むかしたが思ひつくまの神まつり
    よきに似よとの教なるべし
かぐ山の岩戸の桜|匂《にお》ふなり
    神世人の世隔てざるらむ
おかるゝは命ならずやとられつゝ
    時にあふぎの危《あぶな》かりけり
                (扇)
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 かような歌を覚えています。家へ来て沢山書かれたのでした。
 野之口隆正《ののぐちたかまさ》、福羽美静《ふくばびせい》などもあったのは、同郷の先輩のためでしたろう。福羽氏のは仮表具で、私が伺った時に書いて下すったままでした。
 話が外《そ》れましたが、右の海屋の幅は割に長い間掛かっていました。
「これは茶掛《ちゃがけ》によかろうと思うが」と、或る時お兄様がいわれます。
「お兄様も、お茶をお始めになりますの。」
「いや、石黒《いしぐろ》氏がお茶をなさると聞いたから、あげようかと思って。」
 石黒|忠悳《ただのり》氏はその頃の長官でした。茶器は昔から古物を尊び、由緒ある品などは莫大《ばくだい》な価額のように聞きましたのに、氏は新品で低廉の器具ばかりを揃《そろ》えて、庵《あん》の名もそれに因《ちな》んで半円とか附けられたとかいうことでした。きっとそれが気に入って、お贈りする気になったのでしょう。
 お兄様はそれを持って出て、庭にいられたお父様に声を懸けられました。
「お父様、これをいただいて行きますよ。」
「あゝあゝ、持ってお出《いで》なさい。」
 盆栽に見入って、振返りもなさいません。お父様は石州流のお茶をよくなさるけれど、書画には一向趣味をお持にならないのでした。
 お兄様は何と思われたのか、勤めへお出かけに、「今度石黒さんへ行く時、お前も連れて行こうね」とおっしゃいました。そうしたら
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