うにしなければならないよ」と語られるのを聞きました。
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   書物

 向島に住んで小学校にも通い馴《な》れた十歳位の頃でした。日曜日に本郷《ほんごう》から帰って来られたお兄様が、床脇《とこわき》の押入れの中に積重ねてあった本の中から一冊を抜出して、「こんな本を読んで見るかい」とおっしゃいました。
 和綴《わとじ》のかなり厚い一冊物で、表紙は茶色の熨斗目《のしめ》模様、じゃばらの糸で綴じてあり、綴目の上下に紫色の切れが張ってあって『心の種』と書いてあります。橘守部《たちばなもりべ》の著なのです。今までそんな形の本は見たことがないのですから、嬉《うれ》しくってたまりません。「わたくしに解るかしら」と、おかっぱ頭をかしげました。「これは歌の御本ね。『古今集』の序に、やまと歌は人の心を種として、よろづの言《こと》の葉とぞなれりける、とあったもの。」
「何だ、そんな事を知っていたのか。」
 知っていたというのではなく、何でも手当り次第に見るのですから、ふっとそれを思出したのです。
「これはお祖父様《じいさま》の御本だったのだよ。」
「では大切にしましょうね。」
 大切にはしましたけれど、面白いとは思いません。こんな本もあると、机の上の本たての飾のつもりでいました。
 次に見せて下すったのは『宇津保《うつほ》物語』でした。これは絵入で、幾冊もあって、厚い表紙は銀泥《ぎんでい》とでもいいますか、すっかり手摺《てず》れて、模様もはっきりしません。一冊の紙数は幾らもないのでした。仮名書の本は読みつけていましたから苦になりません。家に古くからあった草双紙《くさぞうし》のどこを開けても絵があって、その絵の廻りに本文がびっしり仮名で埋めてあるのを、今頃の子供たちが新聞でも見るように読みつけていましたから。
 見せて下さる本の中には、ひどく古くて、表紙や裏表紙も破れていて、中は歌の題にふさわしい歌の言葉をいくつも並べて、さもさも続けて御覧なさいというように見えるのもありました。
「これは何という御本です」と伺ったら、「題などはどうでもいいよ。古本屋がおまけにくれたのだから」と、お兄様は笑っていられました。
 清輔《きよすけ》の『袋草紙《ふくろぞうし》』でしたか、ひどく大きい本で、中の字は荒いのです。「紙が無駄だこと」と私はつぶやきましたが、お兄様は、そこに朱でいろいろ書入れをなさるのでした。私に見せて下さるばかりでなく、御自分が見たくてお買いになって、その跡を下さるのです。
 博文館の『日本文学全書』や『日本歌学全書』が出るようになってから、手軽に本が手に入るので、次々と買って読みます。木版本は本箱に積んで置いて、折々出して見るのでした。
 女学校の始めの頃に学校で読みましたのは『徒然草抜穂《つれづれぐさばっすい》』『土佐日記』『竹取物語』などで、きっと教科書用に拵《こしら》えたのでしょう、誰にでもやさしく読める本でした。学校も始めはお茶《ちゃ》の水《みず》でしたが、上野《うえの》になり、一《ひと》ッ橋《ばし》に移って行き、その間に校長も先生もたびたび代ります。平田|盛胤《もりたね》という若い国語の先生が見えました。平田|篤胤《あつたね》の御子孫だそうで、尤《もっと》も御養子とのことでした。『土佐日記』の一節を一わたり講義なすって、「不審のある方は手を挙げて」とおっしゃると、幾人もいない生徒のあちこちから手があがります。注釈本でも見たら一目で解るものをと思いますのに。
 同級に土佐出身の身分の良い家のお嬢さんがいられて、美しいお方でしたが、
「かみがらにやあらん、くにびとの心のつねとして、いまはとて見えざなるを、心あるものははぢずぞなん来ける。これはものによりてほむるにしもあらず。」
 このことを先生は気の毒がって、「こんなに書いてありますが」と言いわけをなさるのを、皆笑いました。お家におりおり発作をお起しになる御病気のお母様があったそうで、時間中にお迎いが来ることなどがありましたが、やがてお出《いで》にならなくなりました。
 漢文の先生は背の高い中年の太った方でした。赤いお顔をはっきり覚えています。小森先生とかいいました。御自分で、いろいろの本から抜萃《ばっすい》されたのを仮綴にして配られなどされましたが、この方も間もなくおやめになりました。
 級が進んでから中村秋香《なかむらしゅうこう》先生が見えました。お歳は五十歳位でしょうか、痩《や》せた小柄の更《ふ》けて見える方で、五分刈《ごぶがり》の頭も大分白く、うつ向いた襟元《えりもと》が痛々しいようです。厚い眼鏡の蔭から生徒たちを見廻されます。始めて出られた時、自分が好む本だからと、新井白石《あらいはくせき》の『藩翰譜《はんかんぷ》』を持って来られて、右手を隠しに入れ、左の手に本を持っ
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