原稿
兄鴎外と一緒に暮した幼い時の話をとのことですから、向島《むこうじま》の小梅村に住んでいた頃のお話でもいたしましょう。明治十年頃のことです。
父は郷里から出て来た当座、亀井家のお邸のすぐ近くの小さな借家に兄と二人だけで住んでいましたので、私は祖母、母、次兄と後からそこへ来たのです。父は毎日お邸へ診察に出かけ、後は近所の知り合の病人を見るくらいのものですから、至って暇でしたが、家には庭がないので、好きな土いじりが出来ません。手狭《てぜま》で診察室もないのですから、どこかもう少し広い所をと探して、小梅村の家を見つけたのでした。
その家は五間ぐらいでしたが、庭が広くて正面に松の大木があり、枝垂《しだ》れた下に雪見灯籠《ゆきみどうろう》がありました。左と右とにも松があって、それぞれ形の違った石灯籠が置いてありました。それが大変父の気に入ったので、引込み過ぎて不便なのも厭《いと》わずそこに極《き》めました。表門の脇《わき》には柳の大木があり、裏には梅林もあって、花盛は綺麗《きれい》でした。後大正六年に兄がその旧宅地を尋ねて見た時に、庭園の形が残っていて、雪見灯籠もまだあった由が日記に見えています。
家の右隣は農家の畑地でした。左隣には大きな池があって、人の鯉屋《こいや》と呼ぶ家がありました。そこには気の少し変な中老の女がいて、お釜《かま》を洗って底の飯粒を寄集《よせあつ》めては、「おいしい、おいしい」というのが聞えるということでした。
その頃兄は学校の寄宿舎でしたろう。次兄と私とは小学校で、私はまだ小さかったのですから、寂しい田圃《たんぼ》の中の道を通うのに、雨降りの日など、いつも祖母に送ってもらいました。風呂敷包《ふろしきづつみ》を斜に背負い、その頃よく来た托鉢僧《たくはつそう》のような饅頭笠《まんじゅうがさ》を深々と冠《かぶ》り、手縫いの草履袋を提げた私の姿は、よほど妙であったらしく、兄たちは菌《きのこ》のお化《ばけ》だとか、狸《たぬき》のお使いだとかいって笑いました。
その笠に画いた墨絵は兄の筆でした。兄はよく四君子《しくんし》を画いたり、庭を写生したりしたので、童子が牛に乗って笛を吹いている絵を殊《こと》によく画きました。それがかわいいので、よくねだって貰《もら》ったものでした。明治四十四年に寺内《てらうち》陸軍大臣が引退せられる時、部内の高等官一同の贈物に、牛に乗った童子の銀製を選んだのは兄でした。
父は口数の少い方で、患者に対しても余計なことは申しませんが、親切なので、その人がらを好む患者がつぎつぎと知人を紹介して、だんだん病家は殖《ふ》えるのでした。その頃向島にも医師会が出来て、おりおり寄合《よりあい》があり、扱った珍しい患者とか、その変った容態などを代る代る話合うことになりましたが、父はそれを非常に苦にして、「実に困ってしまう。己《おれ》は皆も知っている通り口下手《くちべた》だからなあ」といいます。
その時母は申しました。「それでは林《りん》に相談してみましょう。何とかよい考えがあるかもしれません。」
その頃兄は、土曜日ごとに家へ帰って来るのでした。年はまだ十七、八歳でしたろうか、両親は頼もしいものに思って、何事も相談するのでした。
「何かよい考《かんがえ》はないかねえ。お父様は今までにそんなことに馴《な》れていられないから、ひどく苦にしていらっしゃるのだが。」
そこで兄は、様子を父から聴いて、二、三枚の原稿を書きました。
「こんなことではどうでしょう。私の考違いがあったら直します。」
父は喜んで、「いや結構だろう。随分どうかと思われるようなことをいう人もあるのだから。自分の考も少し混ぜて話すとしよう」といいました。
やがてその日が来ました。何んだかそわそわして落附けませんかった父は、夕刻機嫌よくお帰りになって、「よかったよ。なかなか評判がよくて、己は面目を施したよ」とのことでした。
次の土曜日には、父は朝から、「今日は林に好物を御馳走《ごちそう》してやろう」といって、兄の帰りを待っていられます。私たちはお相伴《しょうばん》が出来るので大喜びです。
「この間はありがたかった。お蔭《かげ》で工合がよくて、会長から、森さんあなたがあんなにお話が上手だとは思いませんかった、またどうか話して下さい、といわれたよ。」
父のそうした話を聞いて、「それはお父様のお話し方がよかったのでしょう。あんなことでよければ、いつでも間に合わせます。お話になりそうなことは気を附けて置きましょう」と兄は申しました。
その日は家内中晴やかな気分で、御馳走をいただぎました。
それからいつでしたか父が、母に向って、「やっぱり林は普通の子ではないねえ。己たちの子としては出来過ぎている。どうか気を附けて煩《わずら》わぬよ
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