ま》の取れることなどもありますが、極《き》まりが附いて皆がそこを離れるころには、また別の方で呼立てます。天気の時は大抵軒下でしますが、雨が降るとどやどやと這入《はい》りますから、広い三和土《たたき》も一杯です。朝の市が済んで、そこらを掃上《はきあ》げて、静かになってから、人々は朝餉《あさげ》を取るのでしょう、出て来た人たちを相手のちょっとした食事の出来る店もあります。腰を掛けて休む店も幾軒かありますが、それは市場を離れて大橋へ行く道の後を田圃《たんぼ》にした辺にあって、並べた菓子類などが外から見えます。そうした家では、どこでも毬餅《まりもち》とか、新粉《しんこ》の餅に餡《あん》を包んで、赤や青の色を附けたのを糯米《もちごめ》にまぶして蒸したもので、その形から名附けたのでしょう。それに混って雀焼屋《すずめやきや》があります。それはこの土地の名物です。小鮒《こぶな》の腹を裂いて裏返し、竹の小串《こぐし》に刺して附焼《つけやき》にしたもので、極く小さいのは幾つも並べて横に刺すので、それは横刺ともいいます。鮒は近在で捕《と》れるのでしょう、大きな桶《おけ》に一杯入れたのが重ねてあって、俎板《まないた》を前に、若い男がいつも串刺に忙しそうです。
野菜市場のしにせ[#「しにせ」に傍点]に美しい娘があって、長く患っていて、幾人もの医者にかかっても直らぬとのことで、最後に父に診察してもらいたいと、そこのかかりつけの医者から頼んで来ました。父は新しい病家などは好みませんけれど、人力車で迎いに来たので行きました。やがて帰られたので、「何病でした」と誰もが聞きます。美しい娘だったからです。父は、「いや、すぐ直るだろう」と何気ない様子でした。「呼吸器だろう」などと噂《うわさ》をしましたが、間もなく全快して、病家では非常に喜んで、手厚い謝礼をしました。その貰い物で賑《にぎや》かな夕食の時に、兄が、「何病でした」と問いますと、父は笑って、「なに、長襦袢《ながじゅばん》を一枚むだにしたのさ」といわれたばかりでした。
その美しい娘というのは、虚弱で下剤の利かぬ体質だったために秘結《ひけつ》に苦しんでいましたが、灌腸《かんちょう》を嫌うので治療の仕様もなくて、どの医者も手を引きましたので、父は家人に話して、長襦袢に穴をあけて、それで灌腸器を挿入したところから快通があって、それからずんずん直ったのでした。強情だった娘も、さすがに疲れた時だったのでしょう。それから市場にも病家が出来ました。その後その家の前を通る時には、ここが長襦袢の家だと思いました。
市場の近くに、寄席《よせ》がありました。小路《こうじ》の奥まった所で、何といいましたか、その名の這入った看板が往来に出ていました。兄は毎日そこを通られるのです。小さいけれど、三丁目にも寄席はありましたが、近いので、顔見知りの人が多いからでしょう、遠い方の寄席へ行かれます。夜一しきり明日の下調べが済むと出かけられるので、なるべく目立たぬ服装をして、雨が降っても平気です。尤《もっと》も乗物などはありません。
どうしたのか、その寄席へただ一度連れて行って下さいました。入口で木戸番がにっこりして、手磨《てず》れた大きな下足札《げそくふだ》を渡しました。毎朝車で通る人とは知るまいと、兄はいつもいわれますけれど、どうでしょうか知ら。すぐ女が薄い座蒲団《ざぶとん》と煙草盆とを持って来ます。高座に近く、薄暗い辺に座を占めて、すぐ煙筒《キセル》をお出しになります。家では煙筒をお使いになりませんから、珍しいと思って見詰めていました。
あまり人はおりませんでした。落語はそれほど上手ではないようです、私は始めて聴《き》いたのですけれど。一人二人代ってから出て来たのは、打見《うちみ》は特色のない中年の男でしたが、何か少し話してから居ずまいを直して、唄《うた》い出しました。
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小野小町《おののこまち》という美女は、情知らずか、いい寄った、あまたの公家衆《くげしゅ》のその中に、分けて思いも深草《ふかくさ》の少将。
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まあ何んという美声でしょう。薄暗い高座も、貧しい燭台《しょくだい》の光も目に入りません。私はただ夢中で聴きとれていました。なお唄い続けます。
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九十九夜《くじゅうくや》まで通い詰め、思いの叶《かな》う果《はて》の夜《よ》に、雪に凍えて死んだとは、少々ふかくなお人じゃえ。
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楽屋へ引込んだ跡で、やっと気が附いたかのように、そこらの客が一斉に拍手を送りました。
兄は「連れて来てよかったね。もう帰ろう」といって、立上られました。まだ跡があるのでしたが、私もそれで十分と思って、人の間を分けて、下足の方へ出ました。
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