て、生徒の机の間を歩きながら読上げられます。興に乗って、手振り足踏みが盛んになると、私は面白く聞入っていましたが、大抵の人はくすくす笑います。それに黒板に書かれる字がひょろひょろとして、とても読みにくいのを、笑わぬ人はありません。先生には学校が終ってからも長くお附合いしましたが、お手紙も短歌も見事なものでした。白石のものを使われたのは、近世の文章の規範となるものとのお考でしたろう。
兄の歿後、与謝野寛《よさのひろし》先生のところへおりおり伺うようになった頃、『日本古典全集』が出版になりました。あの赤い表紙はどうかと思いますが、寛先生のお好みのように聞きました。あれは割合に評判がよく、長い間続いて出ましたから、積上げた高さはかなりです。昔の本でしたら、非常な量になりましょう。
戦争のために疎開する時、活字の本を先に出して、木版本を入れた本箱を後にしたのは、なるべく身近に置きたかったからです。お兄様が洋行をなさる時、女学校入学前の私に置土産《おきみやげ》として下すった『湖月抄《こげつしょう》』は、近年あまり使わなかったので、桐《きり》の本箱一つに工合よく納めてあったのを、そのまま出しました。預け先は親類で、鉄筋コンクリートの大きな蔵でした。衣類家具類なども一緒です。
後に残した荷物は、近辺一帯の疎開命令でしたから、家の前の往来はただ車の行列で、なかなか順が廻って来ません。やっと約束の日が来る前の晩に、巣鴨《すがも》から本郷にかけて綺麗に焼けてしまいました。翌朝になって、疎開先の目黒《めぐろ》で書入れのある本や、由緒のある本のことを思って残念がりましたが、目黒の家の上も飛行機が毎日通るのですから、ここまで持って来ても、同じ運命になるだろうとあきらめました。
或日「それ飛行機」というので、急いで地下室に入りましたら、台所の屋根を打抜いて弾《たま》が落ちました。けれども地下室にいましたので、それほど音は聞えませんかった。棚に積重ねてあった瀬戸物類は全部粉砕しましたが、幸いにそれは不発でした。隣家の庭に落ちたのも不発でした。実弾ならば、怪我《けが》位では済まなかったでしょう。誰にも明日の事は分かりませんが、さし当り雨だけはというので、男たちは屋根に上って修繕し、私どもは瀬戸物の屑《くず》をかき寄せるのでした。
終戦になって少し落ちついてから、荷物が返されたのを見ますと、誰が蔵へはいって始末したのでしょう。あれだけあった『古典全集』が幾らもありません。『文学全書』『歌学全書』など、たびたび見る本は、表紙が破れるので綴じかえて、上にそれぞれ書名を書いて置いたのですが、それも同じことで、幾冊か残っているだけでした。ただ奇蹟とでもいうように、『湖月抄』の本箱だけは無事でした。暗い蔵の中の下積みになっていたので、ただの古本の箱と思って見捨てられたのでしょう。
その後また幾年も経過して、烈しい世の中の動きにつれて、住所も安定しませんので、いよいよ老耄《ろうもう》した私は、焼け残った本を少しずつ持って、あちこち流転を続けています。
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落丁本
小石川《こいしかわ》の白山《はくさん》神社の坂を下りて登った処は本郷で、その辺を白山|上《うえ》といいます。今残っている高崎屋の傍から曲って来て、板橋《いたばし》へ行く道になります。農科大学前の高崎屋は昔江戸へ這入《はい》った目印で、板橋で草鞋《わらじ》を脱いでから高崎屋まで、いくらの里程と数えたと聞きました。
白山上は団子坂《だんござか》から来た道、水道橋《すいどうばし》から来た道、高崎屋の方から来た道と、三つが一緒になって板橋へ延びています。そこの角の万金という料理屋は大分古いので、昔東北の方から来る人たちは、そこで支度でもしたのでしょう。様子は変っても、戦災前までありました。これは近年のことですが、その万金の側に食料品屋が出来て、屋根一ぱいの看板をあげたのが浅田飴《あさだあめ》の広告で、「先代萩《せんだいはぎ》」の飯焚場《めしたきば》の鶴千代君《つるちよぎみ》の絵でした。「空《す》き腹に飯」という文句がよく出ていました。実物大といいましょうか、どうもよほど大きいようで、どこでもあんなものは見かけませんが。それが下手な絵なので、見苦しいと思いました。
通りの向いに大丸といって、そこらでの大きな呉服店があって、しっかりした土蔵造りでした。店の前に幅の広い紺の暖簾《のれん》に大丸と染めたのが、いくつか斜に往来へ出ていて、縁にかなりの幅の真田紐《さなだひも》が附いて、石が重りになっていました。その間から這入りますと、番頭が幾人か並んでいて、お客さんはその前へ腰を掛けて買物をするのでした。天井から美しい帯地や反物《たんもの》が頭の上へ下げてあるのは、目新しい品を目に附くようにす
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