でも帰ったかのように働きます。小さな女の子をかわいがるものですから、すっかりなついて負われます。
「まあ、負んぶなどして」といいますと、「大木へ蝉《せみ》が止ったようでしょう」といって揺すぶるので、「大木へ蝉、大木へ蝉」といっては取りつきます。
 このはつは大宮《おおみや》在の土地でも相当な農家の娘で、町の大きな染物屋に嫁《とつ》いで、女の子二人の母親となって、もともと気性の勝った女だったものですから、一人で切廻していました。けれども亭主は善良というだけの人で、継母が一人あり、手不足だというので、継母の縁続きの少女を雇ってから、家の中にいろいろ面白くないことが起り、はつも家出をしようと思立ちました。けれども心を惹《ひ》かれるのは子供です。それも遅生れの末の子が心配になるのでした。それに引かれて一日延ばしに日を送っていましたところ、或日の夕暮に食事の支度も出来て、糠漬《ぬかづけ》を出そうと手を入れた時に、亭主は新漬がいいといい、継母は古漬がいいといういさかいが始まりました。
 ああいやだ、いやだ。こんな処にいつまでもいられるものかと思ったはつは、柄杓《ひしゃく》の水を手にかけて、腰の手拭《てぬぐい》でよくも拭《ふ》かずに、もう前から小風呂敷に手廻りの物を包んで置いたのを取るなり、薄暗い勝手口から出ようとしました。
「暗くなるのに、まだランプを附けないのか」という亭主の声がします。
「お母さん、お母さん」と、妹の方の子の呼ぶ声もするのを後に、はつは駈け出してしまいました。それで今でも糠漬の匂《におい》を嗅《か》ぐと、子供の顔を思出すといいます。
 小学校しか出ないでしょうに、利口な女で、裁縫もしますし、洗濯洗張物《せんたくあらいはりもの》などについては、商売がら私の方で教えられることが多いのです。勝手の仕事の暇々には、庭の草取などもしてくれるので、主人も喜びますし、母はまた自分が昔畑仕事をした時のことなどを口にして、話相手にするのでした。
 置いて来た子の年頃だといって、妹の方の子をかわいがってくれましたが、その子は髪が濃くて、夏向は頭の地まで汗に濡《ぬ》れるのです。その子が或時女中部屋で長く遊んでいると思ったら、「奥様御覧下さい。これで汗もも出来ますまい」といいます。見ると頭をすっかり剃上《そりあ》げて、上はお河童《かっぱ》にしてあります。「私の子をいつもこうしましたから」というのでした。青々とした剃り跡には天瓜粉《てんかふん》が一杯附けてあるので、子供は珍しそうに頭を撫《な》でていました。
 夜ほの暗いランプの光に、小さな鏡を立てて髪を結います。「暗いでしょう、昼結ったら」といいますと、「昼は昼の御用がございますから」というのでした。「そんな小さな鏡で」といいますと、「何、鼻の頭だけ映ればいいのです。あとは勘ですから。」そういって、いつもさっぱりと取上げていました。
「奥様のように、髪に手入れをなさらないではいけません」と、私の頭の雲脂《ふけ》を落したり、梳《す》いたりしてくれた上に、「少しお頭を拝借させて下さい」と、水油を少し附けて、丸髷《まるまげ》に結ってくれました。今まで私は島田《しまだ》にも丸髷にも結ったことがなかったのです。入用の品も、いつの間にか買揃《かいそろ》えて置いたと見えます。自信があるのでしょう、「御隠居様、御覧下さいまし」といいます。母も、「まあ、見違えたよ。日本人はこの方がいいねえ」といわれます。子供たちが珍しがって騒ぎます。私もまだ若かったものですから、気紛《きまぐ》れに近くの写真屋へ行って、子供と一緒に写真を撮りましたが、その写真はいつの間にかなくなりました。
 はつはこんなに行届いていて、誰にでも好かれるのでしたが、二年ほどで暇を取りたいといい出しました。といいますのは、もともとどうかして自立したいと思っていましたところへ、目の前によいお手本が現れたからでした。

 話が別のことに移りますが、はつより先に、主人の郷里長岡の旧藩士で小林という家のちか子という十五になる子が、子守《こもり》にどうかとのことで来ていたのでした。不仕合《ふしあわせ》な境涯の子でしたが、無邪気な、素朴な様子をしていて、少し馴れましたら、小さな女の子を背負い、男の子の手を引いて、その頃流行していた「壮士の歌」というのを歌いながら、広い庭をあちこち歩きます。その歌というのが、「東洋に、屹然《きつぜん》立ったる日本の国に、昔嘉永の頃と聞く、相州浦賀《そうしゅううらが》にアメリカの、軍艦数隻寄せ来り、勝手気ままの条約を、取結んだるその時に」云々というのです。子供は物覚《ものおぼえ》が早いものですから、上手にそれを真似《まね》します。
 昼間はそうして子供をよく遊ばせますが、夜になると、「私に読める本があったら見せて下さいまし」といっ
前へ 次へ
全73ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング