ん。
「そうではありませんよ。遠方へほんとに連れて行かれたら大変だと思って入院させるのです」と、納得させるまでが長くかかりました。
 いつも日当りのいい処で、眼鏡をかけて裁縫をなさいますが、針箱などはありません。何か黒塗の処々|剥《は》げた箱を使うのでしたが、その辺は綺麗に片附いていて、糸屑《いとくず》など散らかっておりません。解き物などをするのにも、長いのは皆|揃《そろ》えてしばって、たとうへ入れてあります。それらは袖廻りとか、絎物《くけもの》とか、当りの強くない処にだけ使うのでした。新しい糸は背筋、脇縫《わきぬい》などに使います。それも大抵寸法を取って切り、右手で縫い始めて、終りますとちょっと左の手で針を持ちかえて、二針三針返し縫をすると糸がなくなります。「両刀使いですね」といいました。短い糸はつなぎ合せて玉にしてあり、それも木綿と絹とが別にしてあって、幾つか溜《たま》ると蒲団《ふとん》の被《おおい》などに織ってもらいます。
 老眼の度が進んだばかりでなく、白内障になって、片方は全く見えず、片方も視力が大分弱ってからは、絵のある本を二、三冊傍に置いて見ていられました。煙草《タバコ》は吸わないのですから、退屈そうでした。たまに私が子供を連れて行きますと、ひどく喜んで、「御馳走《ごちそう》しましょう、栗を持ってお出《いで》」といって、栗の堅い皮を小刀でお剥《む》きになります。「危いではありませんか」といいますと、「私は目で見ないで、勘でするのだから」と、なるほど上手になさいます。「渋皮はそっちで剥いて、御飯に焚《たい》ておくれ」と御機嫌です。
 その間にも、よく鼻をおかみで、紙屑籠《かみくずかご》はじきに一杯です。「年寄は皆鼻をかむものだが、私の洟《はな》のひどく濃いのは、脳味噌がだんだん溶けて出るのらしいよ」といわれるので、「まさか」といって笑います。
 女中たちが早く用事の片附いた夜などに、「御隠居様、お相手をいたしましょう」と、花がるたなどをしますと、始めは喜んでいられますが、あまり負かしては気の毒だと思って斟酌《しんしゃく》しますと、勘がよいのですからすぐ悟って、「もうおやめにしましょう」といわれるのでした。
 追々に残った方の目も見えなくなり、火鉢の傍で泣いていられるのがお気の毒でした。母が心配して私の宅へ来られて、「あんな年寄でも手術が出来るものかしら」と相談されました。主人が早速大学の眼科へ行って、河本氏に尋ねましたら、「健康なら手術は簡単だから」とのお話でしたので、それではと入院となったのです。
 手術の済んだ午後に主人が尋ねましたら、何の故障もなかったそうで、安静第一とのことです。それで二、三日過してから私は見舞いました。
「喜んでおくれ。また見えるようになるそうだよ」といわれます。
 附添《つきそい》の看護婦は元気のよい人で、「御隠居様は大層経過がおよろしそうですが、どうも繃帯《ほうたい》をおいじりになっていけません」といいます。それを聞いて、「うるさくて困るものだから」とおこぼしです。
「それはおうるさいでしょうが、そっとしてお置きの方が早くお癒りになりますよ」となだめますと、看護婦がまた口を挟んで、「召上り物はよく上りますけれど、昨晩あまり甘いお菜だから、さっぱりした大根|卸《おろし》が食べたいとおっしゃいます。けれどもそんな物はございませんといっても、これだけ大勢の食事を拵《こしら》えるのに、大根の切れ端くらいないはずはないとおっしゃるので困りました」というのです。
「おばあ様、ここではね、何でもすっかり出来上った品を運んで来て、附けわけるのですから、大根の切れ端はありますまい。あした大根と卸金《おろしがね》とを持って来ましょう。きょうのお見舞はきんとんです」といいますと、「甘くてもきんとんならば」とお喜びでした。
 帰りに賄室《まかないべや》の前を通る時に見ましたら、間の時間なので、がらんとしていて人気もなく、小鼠《こねずみ》がちょろちょろ走っていました。廊下では繃帯をかけたり、黒い眼鏡をかけた人に多く出逢います。目の悪い人も多いものだと思いました。
 退院後は大分元気を取戻されて、また元のような静かな日が続きました。
 或日森の母が見えて、「お前の家の紋本があるなら見せてほしい」といわれます。宅では男紋と女紋とが木版で出来ていますので、男のは※[#「縢」の「糸」に代えて「木」、第4水準2−15−26]《ちきり》違い、女のは粟穂《あわぼ》違いです。
「女紋の方を捺《お》しておくれ」とおっしゃるので、「何になさるの」と聞きますと、「まあ、待ってお出《いで》なさい。」
 程もなく三越《みつこし》から大きな箱が届きました。「何だろう」と思って開けましたら、燃立つような緋縮緬《ひぢりめん》に白羽二重《しろは
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