と、二人の曾孫が高等学校へ入学した時でした。於菟さんを非常にかわいがっていられたのですから、分ったらさぞ喜ばれたでしょう。
 若い時から身だしなみのよい人だったそうで、老いてからも毎朝丁寧に手水《ちょうず》を使い、切下げの髪を綺麗《きれい》に撫《な》でつけて、火鉢の側にきちんと坐っていられるのでした。毛筋は細く柔かで、茶色になっていましたが、白髪は終るまで一本もないのが不思議でした。小作りな痩《や》せ形《がた》な人で、色は浅黒く、人並より鼻が高いのでした。歯は入歯でしたが、それが鉄漿《かね》でも附けたかのように真黒で、黄楊《つげ》で造らせたとのことでした。
 その切下げの髪で思出したのですが、私を毎朝小学校まで、運動がてら送って下すっていた頃、帰りに巡査が呼止めて、「いつその髪を切ったのか」といったのです。咎《とが》められたと思った祖母は腹を立てて、「ちゃんと届がしてあります。家へお出《いで》なさい、見せますから」といったら、そのまま行ってしまったとのことでした。父は笑って、「咎めたのではないでしょう。誰か親戚の人にでも髪を切らせようと思って聞いたのかも知れません」といわれました。
 祖母はその頃六十位でした。まだ職人などには、男でも結髪の人をよく見かけた時代で、断髪令というものが出たと聞いたことがありますが、まさか届を出したのでもないでしょう。病気のために断髪するという形式でもあったのでしょうか。
 その頃の小学校では日々成績表を附けていて、出来のよいのは丸が貰《もら》えるのです。生徒たちは自然丸の数を競うことになります。帰って祖母の顔を見ると、「今日は幾つ」と、きっといわれます。丸の多い日は元気ですが、少い日にはしょげるのです。叱りはなさらなくても、むつかしい顔を見るのがつらいのでした。
 森の家では質素な生活を長年の間続けていたのですから、祖母はよく働かれたのでしょう。祖父は思う通りを行って、人の思わくなどは顧みない風でしたから、その周囲の人々との間を円満に執りなすのには骨を折られたそうです。上役の人の家に然《しか》るべき来客などのある時には、「お執持《とりもち》に森のおもう様をお願いするといい」といわれたくらいでした。おもう様は方言です。
 初めの男の子が夭折して、次に生れたのが母でしたが、小さい時は虚弱でしたので、育てるのに心遣いが多かったのです。それがやっと成人して養子を貰い、間もなく妊娠したので、これからと思った時に祖父が客死せられたので、その時の祖母の歎きは思いやられます。それでも気丈な祖母は崩折《くずお》れず、養子が優しい性質で励ましてもくれますので、孫の出生をひたすら待ったのでした。そうして生れた孫が私たちの長兄鴎外で、母はその時十七歳でした。
 母の産は不思議なほど軽かったそうです。お医者仲間では、まだ年少なので、骨が堅くないからだろうという人もありましたが、祖母は、「全く祖父のお助けに違いない。生変《うまれかわ》って来られたのだから」と、神棚へ灯明を上げて、いつまでも拝まれたとのことです。
 そんなわけで、その初孫《ういまご》を非常に大切になさるのでした。或日夜更けてから用事のある人が、横堀にあった森の家の辺を通りかかると、あかあかと灯がともっていて、人声もするのです。もしや病人ではあるまいかと覗《のぞ》いて見たら、生れたばかりの赤ん坊のむつかるのをあやすというので、皆起きて騒いでいるのに呆《あき》れたということです。私はその話を聞いてほほえんだのでしたが、近頃|成尋阿闍梨《じょうじんあじゃり》の母の日記のことを佐佐木信綱《ささきのぶつな》大人《うし》の書かれたのに、その母性愛のことの記されてあるのを読んで動かされました。成尋はひよわかったので、人に抱《だか》せると泣き、自分が抱けば泣止む。寝床へ置いても泣出すので膝《ひざ》の上で寝かせ、高坏《たかつき》を灯台として膝の前にともし、自分は背中を衝立《ついたて》障子にもたせかけて、百日の間は乳母《うば》にも預けずに世話をしたなどとあるのです。時代こそ違え、身分こそ違え、祖母の孫に対する心は、阿闍梨の母にも劣らなかったろうと思います。何しろ母が若かったので、長兄は殆《ほとん》ど祖母に育てられたのです。
 私ども兄弟は幸に丈夫でしたが、孫の於菟さんは早く母に別れ、乳母の乳が悪かったというので、始めは弱々しかったのに、母はその頃家事に忙しいので、祖母の心配は一通りではありません。「森家の長男に気を附けねば」とよく世話を焼かれたのですが、時には焼かれ過ぎることにもなるので、皆うるさがり、困りもしました。もう団子坂へ移ってから、於菟さんが腎臓病に罹《かか》って、「入院させたら」という話になった時、「私の傍から連れて行ってしまうのはあんまりだ」と、泣いて承知せられませ
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