に濡《ぬ》れている。高下駄《たかげた》で辷《すべ》りそうだし、橋板の落ちている所もある。桁《けた》の上を拾って歩くと、またしても足許に小僧が絡む。そんなことでどれだけ時間が立ったか、汗びっしょりになった時に和助が来てくれたのだ。」
これを聞いた祖母は、目を円くしていいました。
「それはきっと狸《たぬき》でしょう。あの辺には狸が出るように聞きました。」
「何だか知らぬが、誰にもいわぬように。」
口止めをされたので、祖母は誰にも話しませんかったが、母だけは知っていました。祖父は碁に凝ったためと思われたと見えて、その後は碁石を手にせられませんでした。
長兄のお書きの伊沢蘭軒《いざわらんけん》の伝にも、似寄りの話が出ています。蘭軒が病家からの帰途、雨の夜で、若党が提灯を持って先に立って行きます。蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》のお堂に近い街を過ぎる時、菅笠《すげがさ》を被った童子が後から走って来て、並んで歩きました。
「おじさん、怖《こわ》くはないかい。」
蘭軒は答えません。童子は反覆しました。若党は振返って見るなり、「あっ」と叫んで、傘と提灯とを投出しました。
「どうしたのだ。」蘭軒が問いました。
「今お側にいた小僧は、額の真中に大きな目が一つしかありませんかった。」
「ばかをいうな。そんなものがあるものか。お前の見損いだ。」
「いいえ、河童《かっぱ》が出たのです。あの閻魔堂の前の川には河童がいます。」
蘭軒は高笑いしました。「目が闇《やみ》に慣れて来た。思いの外暗くはない。提灯と傘とを拾って来い。」
伊沢の家には近視の遺伝がありました。それで蘭軒は童子の面を見ることを得なかったというのです。なんというよく似た話でしょうか。けれども森の家には近視眼の遺伝はないのです。
ずっと後のことですが、次兄の篤次郎は筆名を三木竹二《みきたけじ》といって、大の芝居好《しばいずき》で、九代目団十郎が贔屓《ひいき》でした。その団十郎が「高時《たかとき》」を上演しました時に、勧められて祖母と一緒に見に行きました。母は次兄に連れられて、とっくに見られたのです。
団十郎の扮《ふん》した高時の頭は円く、薄玉子色の衣裳《いしょう》には、黒と白との三《み》つ鱗《うろこ》の模様が、熨斗目《のしめ》のように附いていました。立派な御殿の廂《ひさし》の蔀《しとみ》を下した前に坐っています。どろどろの鳴物《なりもの》でそこらが暗くなりますと、天狗《てんぐ》が幾つも出て来ます。皆羽根を附けていて、欄干を伝うのもありますし、宙返りなども鮮かにするのです。その役者たちは、幾日も熱心に物干《ものほし》に下りた鳶《とんび》を見て研究したのだそうです。やがて高時の側へ来て、頻《しき》りに嘴《くちばし》を動かすのは、舞を教えようというのでしょう。高時は機嫌よく立上って、「習おうとも、習おうとも」といって、天狗どもに引廻され、不思議な挙動をさんざん繰返した後に、疲れ果てて睡《ねむ》ります。怪しい気配を訝《いぶか》しがった城入道その他の人々が、廊を踏鳴らして近寄ると、天狗たちはばらばらと柱をよじ上り、鴨居《かもい》を伝わって逃散ります。そして虚空から、「天王寺の妖霊星《ようれぼし》を見ずや」と歌います。その声が聞えると、高時は正気に返って立上り、小|長刀《なぎなた》片手に空を睨《にら》みます。駈寄《かけよ》った人々が燭《しょく》を差上げ、片手を刀の柄にかけて、同じく空を見上げたところで幕になりました。
これを見て私は、また祖母の話を思出したのです。風の冷い晩秋の頃、毎夜二、三の同僚の家へ代る代る集って謡の会をするのに、祖父も混っていられました。藩主は謹厳な方で、歌舞音曲はお好みになりませんでしたが、謡はなさるとのことでしたから、自然家中の者も嗜《たしな》んだのでしょう。その祖父が或夜帰られませんので、病気でも出たのかと早朝人を出しましたら、途中の森の社《やしろ》の廻廊で睡っていたというのです。
「誰とも知らぬ二、三の人と出逢って、ここに立寄ったが、医道について論ずるのに、甲論乙駁《こうろんおつばく》という有様で果てしがなく、ついに言伏《いいふ》せはしたが、ひどく疲れた」と祖父はいわれたそうです。
「高時」の芝居を見てそのことを思浮べた私は、そっと祖母の袖を引いて、「おじい様がお社で人と議論をなすったというのも、あんなでしたろうか」と申しましたら、「そんなお話は人中でするのではありません」といわれました。
頭は円いし、相貌《そうぼう》は立派ですし、祖父もあんな風ではなかったかと思ったのです。それで帰ってから兄たちにいいましたが、誰も相手にしませんかった。
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祖母
森の祖母が八十八で亡くなったのは明治三十九年七月で、ちょうど於菟《おと》さんと、宅の長男
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