ぶたえ》の裏、綿《わた》をふくらかに入れた袖無しです。背には粟穂違いの紋が、金糸に色糸を混ぜ合せて、鮮かに縫ってあります。
「まあ、見事ですこと」と、家中寄って眺めていますと、そこへまた森の母が来られていわれました。
「ちょうど宮内省からいただいた白生地があるので、お祖母様の退院の心祝いを兼ねて緋に染めさせて、家ばかりでなく親類の女の年寄の方たちにも贈物にしようとお兄さんがいわれたので、それぞれの定紋《じょうもん》を縫わせて、五つほど造らせたから、お前の処のお祖母様にもと届けさせたのだが、綺麗でしょう。」
宅の母はそれを、「あまりお立派で勿体《もったい》ない。飾って置きたい」といわれました。
その内に三十七、八年戦役になって、兄は出征されましたので、あの袖無しを著《き》てお祝の席に出ると楽しみにされたのも徒《いたずら》になって、時が過ぎました。ですから三十九年の一月に凱旋《がいせん》になった時の祖母の喜びは非常なものでした。その前日に尋ねましたら、「祖母様がちょっと」といわれます。
何かと思ってお部屋へ行きますと、小さな火燵《こたつ》に寄りかかって、笑いながら、「こうやって林《りん》が立派にやっていられるので、私たちも仕合せなのを喜んでいますが、孫にだって御主人といってもよかろうねえ」といわれるのです。
「そうですとも。御主人に違いありませんよ」といいますと、「私が歌をよんだから聞いておくれ」といわれます。
「まあ」と、私はびっくりしました。今までついぞそんなことなどおっしゃったことはないのですから。
「笑わないでおくれ」といわれます。
「笑うものですか。ただ珍しいので驚いたのです。」
「無事に帰るのを、私も丈夫で待受けたと思った今朝、庭の蹲《つくば》いの傍に水仙が一つ咲いていたのが目に附いたので、
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御主人のけふお帰りをよろこぶか
ぽつかり咲いた水仙の花
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どうだろう、ぽっかり咲いたのがいいたかったのさ。」
私はまた驚きました。昔から家事には精《くわ》しいのですが、そこらに本があっても見ようとはなさらず、ただ倹約ということばかりをいっていられたのですし、まして近頃は気力も衰えて、はっきりもなさらないのに、どうして歌をお思附《おもいつき》になったのだろう、よほどお嬉《うれ》しいのに違いないと思いますと、いつか目頭《めがしら》が熱くなりました。歌は百人一首だけがお馴染《なじみ》だったのです。
「お祖母様はお上手ね。結構ですからお書きになったら。」
「筆なんか持ったことはないよ。お前書いて置いて、林が帰ったら見せておくれ。誰にもいってはいやだよ。」
恥しそうな御様子です。
明くる日、帰宅せられた時はなかなかの混雑でしたが、少しの合間《あいま》に赤い袖無しを著て、ちょこちょこと座敷へ出て、「御無事でおめでとう」と、丁寧に挨拶《あいさつ》をなさいました。
その夜、お客が遠退《とおの》いた時に、歌を書いた紙を私がそっと出しましたら、お兄さんはそれを見て、にこにこ笑っていられました。
翌日出勤の時に、「お祖母様、歌をありがとう」と、声をお懸けになりましたら、首を縮めて、小さな体を一層小さくなすったということでした。
それから気の張《はり》がなくなったというのか、めっきり弱くなられましたが、三、四月頃からは米寿《べいじゅ》の祝をして上げるといわれたのをひどく喜んで、いつもその気分でいられるのでした。人が見えて、そこらがごたごたしますと、「お客様は大勢かい。賑《にぎや》かだね」などといわれます。それで七月亡くなられる時は、もうお湯も召上らず、ただすやすやと息をして、一週間目に終られました。いよいよ納棺という時、お蒲団の上で足を伸したら、ちっとも小さくはありません。やはりいつもつつましやかにしていられるので、誰もが小さく思ったのでした。
御遺言にまかせて、お骨は土山《つちやま》の常明寺の祖父のお墓の傍に納めました。年が立って兄も亡くなられ、向島の墓も都合で三鷹《みたか》へ移されました。それから幾らも立たない頃に墓参に行きましたが、まだ道順もよく分らず、吉祥寺《きちじょうじ》で省線を降りてから、禅林寺まで行く道の細い流の中で障子をせっせと洗っているのを、秋も深くなったと思いながら、佇《たたず》んで見ていましたが、傍に小綺麗な百姓家があって、荒い生垣《いけがき》から中がよく見えます。ふと赤いものを見かけて覗《のぞ》きましたら、日当りのよい縁側に、よほどの年でしょうが、髪の真白な、顔の柔和なお婆さんが、真赤な袖無しを著て、一心に糸車を廻しています。庭には山茶花《さざんか》が咲き、鶏が二、三羽遊んでいて、ほんとに絵を見るようでした。そのお婆さんから、暫く忘れていた袖無しのことを
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