ましたけれどもう癒った。医者の勧めもあり、また箱根へ一週間ほど行きたいと思います」とのことです。
けれども四月二日にはまた、「箱根はさっぱり湯が出ないし、ひどく物資も不足だというから、湯の出るようになるまで見合せます」といって寄越したので、どこへも行かなかったことを知りました。
それから三、四日した四月六日の朝でした。電話がかかって来て、「脳溢血《のういっけつ》で、けさから昏睡《こんすい》状態です」というのです。
「それは大変、すぐ行きます」と、急いで支度している内にまた電話です。「唯今こときれました」と聞くなり、思わずそこに坐ってしまいました。
生きている間に今一度逢いたかったと思うと、涙がこぼれて仕方がありません。老年になってから、十も年下の弟に先立《さきだ》たれ、四人兄弟が私一人になってしまったのですものを。
車といっても近頃は間に合わないので、省線、目蒲線《めかません》と乗継いで行くのが、もどかしくて仕方がありません。駅を下りてからの長い桜並木は、まだ莟《つぼみ》が堅くて、籬《まがき》の中には盛りの過ぎた白梅が、風もないのにこぼれておりました。
枕元に坐ってさし覗《のぞ》きますと、ただ静かに睡《ねむ》っているようですが、もうこの世の人ではありません。拝をしてから額に触《さわ》って見ましたら、氷のような冷かさ。それが電気のように沁《し》み渡ります。つい十日ほど前に、熱いお雑炊を、ふうふう吹いていた横顔が目に浮びました。涙と香の煙の立迷うのとで、そこらはただ朧気《おぼろげ》に見えました。
遺骸《いがい》にはさっぱりした羽二重《はぶたえ》の紋附が著《き》せてありましたが、それはお兄様の遺物でした。納棺の時に、赤い美しい草花を沢山取って来て、白蝋《はくろう》のような顔の廻りを埋めたのが痛々しく見えました。私はそっと紙と鉛筆とを入れました。いつも身に附けていたものですから。
書斎には蔵書が書棚に溢《あふ》れ、また昔からの趣味で、あらゆる物を切抜いて貼附《はりつ》けたのが山を成しています。もはやそれを読む人も、整理する人もないことを思いますと、またしても目頭《めがしら》が熱くなりました。
それから毎日のように潤三郎の家へ行きます内に、並木の桜の花が咲き、それがまた忽《たちま》ち盛りを過ぎて、目蒲線を往復する電車の屋根を白くするようになりました。思えば遠い遠い昔です。私どもが幼くて向島《むこうじま》に住んでいた頃、土手の桜の花の盛りに、やっと歩かれるようになった弟の手を引いて、お母様たちともよくその辺を散歩したものでした。その頃の隅田川《すみだがわ》には花見船が静かに往き来していて、花びらがちらちらと川の水に散りかかっていたのでした。並木の桜の散るのを見て、その頃がなつかしく思出されました。
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雪の日に早くかへれとわれいひぬ
つひのわかれと知るよしもなく
わが涙たゞしづくすれぬかづきて
のごひもあへず香たてまつる
かひなしと知りつゝその名一声は
呼ばであられぬわれなりしかな
なき人をきのふもけふも訪ふ家の
庭の白梅ちることしきり
羨《うらや》ましかの世に行きてむつまじく
父母兄達とかたりますらん
茶羽二重大きく白き菊の紋
兄のかたみをよみの晴著《はれぎ》に
人の世のはかなさ見せてゆく道の
並木のさくら雪とちりかふ
はや十日かすかにちりの積もりたり
君が手ふれしうづたかきふみ
親はらからみなつぎつぎにさきだちて
ひとりのこりぬ七十路《ななそじ》の身の
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祖父
森の家は、石州《せきしゅう》津和野の城主亀井家に代々仕えた典医でした。亀井家は元和《げんな》三年に津和野に封ぜられてから十二代になり、森は慶安《けいあん》から天保《てんぽう》年間までで十一代になりました。祖父はもと佐々田|綱浄《つなきよ》といった人で、若い頃は江戸、大阪、長崎と、諸国を遍歴しました。天保二年に逝《ゆ》いた森|秀庵《しゅうあん》の養子になった頃は、年がもう四十位でした。通称は始め玄仙といったのを、後に白仙と改めました。亀井家では奥附という勤めでした。この祖父が十二世なのです。
祖父は性質が謹厳でしたが、同時に放胆な一面もあったそうで、趣味も広かったので、蔵書には医書の外に歌集、詩集、俳書などもあったのです。その中に橘守部《たちばなもりべ》の『心の種』があったといって、後年長兄が私に下さいました。漢文も達者に書かれたらしいのですが、詩は一つもないそうです。歌は好まれたと見えて、始めて江戸へ出る時に富士山を見て、
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おもひきやさしも名高き富士の根の
麓《ふもと》
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