巻は、いろいろの事情のために、大正十二年一月から始まって、五年目の昭和二年十月にやっと終りましたが、その十五、六巻までの校正は、大抵一度は潤三郎が見ているのです。その間には帝国図書館その他へ行き、関係資料の蒐集《しゅうしゅう》に努めたのです。ついで昭和四年に『鴎外全集』の普及版が計画せられて、潤三郎は編輯《へんしゅう》校正に当りましたが、その後も遺文は続々発見せられますので、それに遺族の思い出をも加えて一冊にしたのが『鴎外遺珠と思ひ出』です。
その後新しい『鴎外全集』が岩波書店から出た時も、潤三郎は相談に与《あずか》って、校正に力を尽しました。岩波版の全集には、「校勘記」というものを添えました。お兄様も晩年は病体で、その伝記物には調査の不十分な点などもあったので、潤三郎は気の附くかぎりその訂正補充に努めて、それらを「校勘記」に記載したのです。
潤三郎がお兄様のことを書いたのは『明星《みょうじょう》』の紀念号からですが、その時はまだ病気が癒《なお》り切らず、鈴木|春浦《しゅんぼ》さんが来て筆記せられたのでした。それから後、お兄様に関することどもは細大|洩《もら》さず書抜いたり、切抜いたりしてそれが長年の間に大分の量になったのを整理して、『鴎外森林太郎』の一冊を作りました。これは昭和十七年に発行してから、一年半の間に十回までも版を重ねて、本人も大満足でした。つまり晩年はその兄のために全力を尽したといってもよいのです。それが急に亡くなったので、あの世でお兄様は潤三郎を迎えて、「御苦労だった」とお礼をおっしゃったろうと思います。
潤三郎が京都府立図書館に勤めていましたのは、明治四十三年から大正七年まででしたが、その間お母様は楽しみにして、京都へお出かけになったものでした。またその間にお母様の御病気の時は、京都から上京して、一カ月ほども看護しました。潤三郎の京都にいた間にお兄様は人々の伝記を起草せられたので、京都に関することを度々照会して、手紙の往復が絶えませんでした。時には宇治《うじ》までも行って、万福寺《まんぷくじ》の墓地にある碑文を写して来たりなどもしました。帰京後にも、伝記に関しては、いろいろ蔭《かげ》の補助をして上げておりました。
性質が至って優しくて、私の頼むことなども、潤三郎はよく聞いてくれました。何の本が見たいといいますと、すぐに本屋を探して買って来てくれますし、何が分らぬといいますと、すぐに図書館で調べて、書抜《かきぬき》を送ってくれました。私が年をとって細《こまか》い文字など見づらいので、校正なども頼みますと、長年|馴《な》れているものですから、手早く親切にやってくれます。それをいつも感謝しておりました。酒を絶対に用いませんので、御礼心に、来そうな時には甘いお菓子を心懸けて取って置くようにしていました。
萎縮腎は一時|快《よ》くなりましたので、大晦日《おおみそか》には米や野菜を持って箱根へ湯治《とうじ》にまいりました。元旦にそこから寄越《よこ》した葉書に、「私は割合に元気にしております。元日と二日とは休養、三日頃から見物、携帯食糧のなくなる頃帰京」などとしてありました。全快したのかと喜んでおりましたら、二月の中頃に丹毒《たんどく》になったといって来ましたので、どうかと思って見まいますと、「もう足の痛みは取れた」といって、座敷の中をずっていました。それほどでもなかったらしいのですが、いろいろの病気も皆腎臓から出るらしいので、内心困ったものと思いました。
その年は例年よりも寒さが続いていました。三月二十日になってまだ雪を催している日に、台湾の於菟さんに潤三郎の近況を知らせようと手紙を書いていましたら、そこへ当人がひょっこり尋ねて来ました。
「まあ、もう出歩くのですか。無理でしょうに」といいますと、「痛みも取れてあまり退屈だから出て来ました。神田《かんだ》の本屋に用があるので、ついでに寄ったのです」というのです。
食事時になりますけれども、時節がら何もありません。何しろ寒いのですから、お雑炊《ぞうすい》を作って出しましたら、「これで温かになります」と、ふうふう吹いて食べておりましたが、その横顔はめっきりと痩せが目立っていました。
帰ります時に、玄関まで送って出て、「病気の挙句《あげく》だから、気を附けて早くお帰りなさい」と書いて見せましたら、「うんうん」とうなずきました。悪くならねばよいがと、後姿を見送ったのですが、それが宅へ来た最後となってしまいました。
潤三郎が帰ると、間もなく雪が降出しました。案じられるものですから手紙を出しましたが、この頃は郵便も手間取るので、二十七日にやっと返事が来ました。「あれから帰りに新富町《しんとみちょう》の友達の家で話す中に雪となり、帰ったら病気が再発してまた医者通いをし
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