こけ》のついた石に紅葉の散っている時などはよい眺めでした。或建築家が、乾いた庭は息詰りがしてならぬ。水はつくばいの水だけでもよい。庭でそこばくの水を眺めるのは、お茶を飲むのと同じ気持がするといわれました。兄はよく草履ばきでその石の上に跼《かが》んで、そこらを見ていられました。明治二十九年の句に、「亡父を憶《おも》ふ」として、
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俤《おもかげ》やつくばひのぞく秋の水
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というのがあります。
こんなことを思返している内に式は終ったのでしょう。あたりの人々のぞよめく気はいがし始めました。
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弟
昭和十八年十二月十三日のことです。弟|潤三郎《じゅんざぶろう》から来た葉書に、「工合が悪いので医者へ行ったら、萎縮腎《いしゅくじん》との診断です。とうとう父上、兄上と同じ病気に懸《かか》りました。いずれ跡を追うことになるでしょう」とありました。びっくりして他へ行くはずだったのを止《や》めて尋ねましたら、家はひっそりとしています。あまり静かなので黙ってそっと上って襖《ふすま》を開けますと、潤三郎は机に倚《よ》ってこっちを見て笑っています。外に誰もいないので玄関の戸の開く音も聞えなかったのでしょう。「人をびっくりさせてはいけないよ」と、紙に書いて見せますと、「いや、それほど重くはないそうで、ただ長くかかるといわれたものだから」といいます。
「長くかかってもいいではありませんか。お兄様のは一、二年だったけれど、お父様のはよくなったり、悪くなったり、随分時がかかったでしょう。老年になれば誰でもする病気ですから、気を附けて体の調節を図ったら、きっとよくなりますよ。安静にしているのが第一ですから、あまり出歩かぬことですね。」
私はこう書いて見せて、その日は帰りました。
潤三郎の耳の遠いのは昔からです。賀古《かこ》さんの病院へ通って、代診の内藤さんというのが優しいよい人だったので、それほどでない時にも、よく診《み》てもらったものでした。
大正十一年にお兄様がお亡くなりの時、一週間ほど詰切《つめき》って、葬儀が済んで帰宅したその晩から大熱を出して、四、五日を夢中で過して、ようよう全快しましたものの、その時から耳は全然聞えなくなりました。精神上の打撃からだと医者はいわれます。それでも端《はた》の者が思うほど苦にもせず、元気に書き物をしたり、調べ物をしたりしておりました。いつも紙と鉛筆とを懐《ふところ》に持っていて、それを出しては人に書かせ、自分は口で返事をするのでした。
妻の静子さんは、森の親戚《しんせき》の米原《よねはら》家の人なのですが、その生れた時に、私どものお父様の名の一字を取って、静子と名づけられたのです。子供は一人ありましたが、早く亡くなりました。静子さんは生田流《いくたりゅう》の琴が上手なので、近所のお嬢さんたちに、楽しみに教えていられました。潤三郎が耳が聞えないものですから、琴の音をうるさがらないで都合がいいといっていられました。
潤三郎が『朝鮮年表』という本を作ったのは、よほど前のことです。朝鮮に行きたい希望でしたが、生来虚弱なので、お兄様からお許しが出ませんでした。朝鮮の歴史にも興味を持っていましたが、早くから江戸時代の文化史を専攷《せんこう》にして、『紅葉山文庫《もみじやまぶんこ》と御書物奉行《ごしょもつぶぎょう》』の著書があります。これは東照宮三百年祭紀念会の補助に成ったので、昭和八年に出版せられたのですが、約八百頁もあって、幕府の紅葉山の変遷から、御書物奉行九十人の伝記が集めてあり、奉行の伝記に関しては、雑書の類まで広く漁《あさ》った上に、その墓所をも一々踏査したのでした。京都府立図書館在職中に筆を執り始めてから、完成までに二十年の歳月を経、その間に稿を改めることが五回に及びました。自分が図書館に勤めていましたし、お兄様も図書頭《ずしょのかみ》をなすったりしたので、自然そうした方面に興味を持ったのでしょう。
外に『多紀氏の事蹟』という著述もあります。多紀氏は江戸時代の漢方医学の牛耳《ぎゅうじ》を握って、あるいは医学校を創立して諸生を教え、あるいは書物を校刊して学者の研鑽《けんさん》の資に供した官医で、その登門録と題した門人帳に九百五十人もの名が見えるのでもその盛業が忍ばれます。多紀氏の墳墓は滝野川城官寺《たきのがわじょうかんじ》にありますので、そこへ調べに行く時には、いつも麺麭《パン》を持参で、私の家へ寄っては、お茶を下さいといったものでした。この出版は日本医史学会からの補助を受けました。
『多紀氏の事蹟』もまた昭和八年に出版せられましたが、その年の暮にはまた於菟《おと》さんと共に、『鴎外遺珠と思ひ出』という書物を公にしました。最初の『鴎外全集』十八
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