を雲の上に見んとは
[#ここで字下げ終わり]
と詠んでいられます。それを後に福羽美静翁が半折《はんせつ》に書いて、自ら讃歌を添えて贈られたのが、懸物《かけもの》になって残っていました。俳諧《はいかい》は大阪にいた頃|点取《てんとり》ということを人から勧められたけれど、宗匠の人物に不服だったのと、無学の人にも叶《かな》わなかったりするので廃《や》めたのだそうです。
 碁も謡も少しはなさいました。若い頃には碁に凝ったこともあるらしいのですが、或《ある》集会で十ばかりの童子でその道の天才といわれるのと打って見ましたら、少ししたらその子が声を立てて笑って、「いやだ、おじさんは。わたしがこう打てばこう、ああ打てばああと考えたのでしょうが、それではだめですよ」といいました。じっと考詰《かんがえつ》めてしたことに図星《ずぼし》を指されて赤面して、もう続ける気持がなくなったそうです。その子は盤を離れると、そこにある菓子を食べたり、相撲《すもう》を取ったりして、外の子供と少しも変らないのに、その道にかけては怖《こわ》いものだといわれました。
 風采《ふうさい》もよく、背丈《せたけ》もあり、同役は著流《きなが》しが常なのに、好んで小袴《こばかま》をはかれました。頭こそ円けれ、黒羽二重の羽織を長めに著て、小刀を腰にした反身《そりみ》の立姿が立派で、医者坊主などといわれた円頂《えんちょう》の徒とは違うのでした。
 その円頂のことですが、森の親戚に西《にし》という家があります。やはり代々の医者でした。森からそこへ縁附いた人の後に、小字経太郎《こあざなみちたろう》、寿専というのがあって、幼い時から学問を好んで、就《つ》いて学ぶ師が皆驚くほどでした。家蔵の書を残りなく諳《そらん》じたのです。嘉永《かえい》元年その二十歳の時に有為の才を認められ、当職が召出して藩主の命を伝えました。それは、「一代|還俗《げんぞく》仰付けらるゝに依り、儒学を修業すべし」というのでした。還俗は医者を罷《や》めることなのです。つまり僧と同じ扱いなのでしょう。後に男爵西|周《あまね》となったのはこの人でした。
 祖父には人に譲らぬ気概があったので、時の典医だった堀、平田、加藤の諸氏と、脈について大いに論じた書類がありました。その頃の医者の診察は第一に脈を取り、舌を望むのです。手首を支えて動脈に触れるのですから、奥方とか姫君とかいわれる方々は、人に面《おもて》を見られるのを厭って、糸で手首を結わえて、簾《すだれ》の間から出されるのを、膝行頓首《しっこうとんしゅ》して拝診したというのです。これを糸脈《いとみゃく》というのですが、恐らくは形式だけのものでしょう。傷ついて両手を包んだ人の脈をどうして見るかという説が出て、誰も頭を傾けた時、祖父は脈は心《しん》の響を伝えるものだから、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》、頸《くび》、股《また》、脛《すね》、どこでも脈の通う所を押えれば知ることが出来る。手首は触れやすいために習《ならい》となったのに過ぎぬと論ぜられたので、列座の人々は驚き呆《あき》れ、首肯する者、否定する者、暫く騒然としたそうです。
 森の家を嗣いでから祖母を迎えましたが、最初に出来た長子が夭折《ようせつ》し、次に生れた長女はひ弱くて心細かったのでしょう、その頃|石見国美濃郡《いわみのくにみのごおり》に高橋|魯庵《ろあん》という人があって、その子の順吉というのが夙慧《しゅくけい》として聞えていましたので、貰受《もらいう》けて養子にしました。津和野に来たのはその子が九歳の時でした。
 順吉は眉目《びもく》が秀麗で、動作が敏捷《びんしょう》でしたから、誰にも愛されました。養老館に入って学びましたが、十四歳になった時には、藩の子弟にも及ぶ者がないと推奨されたのです。養老館は天明《てんめい》年間に建てられた藩の学校で、孟子《もうし》の養老の語を取って名附けたのです。後年母が話されたのに、「医者の家で人の出入も多く、子供に何か持って来てくれるのに、誰も私にという人がなくて、順さあに上げてとばかりいうので、祖母は変な顔をなすったよ。私はよほど無愛想な子だったと見えるね」とのことでした。
 順吉はそれほど受けがよかったのですが、祖父の気に入りませんでした。心に誠実がなくて、時には虚偽にも類した行為も交ったので、弱い少女と妻の行末《ゆくすえ》とを頼むのに不安だったらしく、ついに離別せられることになりました。それを聞いた知人で、訝《いぶ》かしがらぬ者はありません。祖父があまりに頑固《がんこ》だと誹謗《ひぼう》する人さえあったのです。いよいよ話が極った時、祖母は五年間の親しみを思って涙を流されたそうですが、当の順吉は平気だったといいます。
 しかし俊秀な少年として知られていたのです
前へ 次へ
全73ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング