お亡くなりになったので、老年の母上によくお尽しになるのでした。病院にお住いの頃でしょう。夜を更《ふか》してお帰りになると、母上は睡《ねむ》らずに待っていられます。廊下でわざと足音を高くして、「おっかあ、帰ったよ」と、一声お懸けになると、それで安心してお休みになるのだとのことでした。ほんとは何とおっしゃるのか知りませんが、そうお話になるのを聞いて、「御尤《ごもっとも》で」と、幾度も母はうなずきました。兄なども母の晩年には、出這入《ではい》りの度に、廊下づたいに部屋の傍まで来て声を懸けますので、母はどんなにそれを喜んでおりましたか。年寄の気持は、皆同じことでしょう。
上総《かずさ》の日在《ひあり》に賀古氏の別荘が出来た時、兄もその隣の松山に造りました。その二つに鶴荘、鴎荘の名を附けて、額を中村|不折《ふせつ》に書いてもらったのですが、賀古氏の方は簡単でも門がありますから、すぐ掛けられましたけれども、森の方には何もないので、いつまでも座敷の隅に置いたままになっていました。後になって入口の格子《こうし》の上に掛けたとか聞きました。日在へは兄はあまり行きませんでしたが、賀古氏は晩年よく行っていられました。
今思出してもおかしいことがあります。病院を経営なさる御都合上、幾らか相場《そうば》にも関係なさったらしく、或時好条件の株があるが買ったらと、頻《しき》りにお勧めになるので、金子《きんす》をお預けしたのだそうです。ところがそれが全く思惑《おもわく》違いとなったので、いつものさっぱりした気性にも似ず、ひどくそれを苦になすって、こちらでは忘れた頃になっても、まだ済まなかった、済まなかったとおっしゃる、と母が笑っておりました。
大正十一年兄の終る時には、よく団子坂へ来ていられました。何んのお話をなさるのでもなく、ただ枕元《まくらもと》に坐っていられるだけでも、兄にはそれが何よりも心丈夫らしく、尋ねた時に賀古氏が来ていられると聞くと私までが、よかった、と思ったことでした。
大正十二年の震災に病院は焼けましたが、あの悪いお足であちこちお逃げになったのに何の怪我《けが》もなくて、本郷森川町新坂上の御親戚に避難せられました。その冬お見舞として駱駝《らくだ》の毛糸で襟巻《えりまき》を編んで差上げたら、大変お喜びで、この冬は風も引くまいとの礼状でした。ところがその後に風を引いて、なかなか直らぬとのお手紙だったので、襟巻も利き目がなかったと、家で話合いました。その頃には、焼跡に新築を急いでいられるようでした。
次に載せるのは、翌十三年四月十日に、主人宛に寄せられたものです。
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拝啓。今朝与謝野氏来訪、不折《ふせつ》書林太郎君墓銘数葉持参致し、誠によき出来に候。礼金は先づ筆墨料として×円|許《ばかり》投じては奈何《いかん》との事に候。三十余枚も書き試みたる趣に候。御序《おついで》の節立寄下され候はゞ幸に候。此書|悉《ことごと》くを団子坂に送りやるべきか、奈何(後略)
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次に昭和に入ってからのを数通載せます。
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又寒くなり申候。日露戦役後に於《お》ける兵站《へいたん》衛生作業のあらまし、奉天《ほうてん》戦前後に於けるを当時の同僚安井氏の記したるを、頃日《けいじつ》『軍医団雑誌』といふのにのせ候趣にて、其別冊数部を送りこし候まゝ、筋違ひのつまらぬものなれども、一冊拝呈仕候。此戦役の前半、即ち第二軍に於ける兵站衛生作業、南山役《なんざんのえき》、得利寺役《とくりじのえき》(大石橋《だいせつきょう》、蓋平《がいへい》小戦)、遼陽《りょうよう》戦なれども、此分を記すと云《い》ひし軍医先年病歿、それ切《きり》になり居候。
拝啓。先人の小伝わざわざ御返し下され恐れ入候。台湾名物|唐墨《からすみ》下され、有難く存上《ぞんじあげ》候。酒伴の最好物に候。私事十六日上総へまゐり、昨夜帰宅仕候。取りあへず御挨拶迄《ごあいさつまで》、拝具。
御書|辱《かたじけな》く拝見仕候。かねて願上候|御認《おんしたた》めもの、早く拝見いたし度と存じ候へども、今日も尚《なお》せき少々出で候まゝ、引き籠《こも》り罷在《まかりあり》候。熱は既に去り申候。もし御都合よろしく候はゞ、十日か十一日頃、乍憚《はばかりながら》御来臨下され度|希上《ねがいあ》げ候。此度の風しつこくこまり候。早々。
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次に載せるのは、昭和五年の葉書と封書とです。
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「不忘記」拝見仕候。先達て奈良、芳野《よしの》へ御旅行の折、御母上様の御墓所に御参詣《ごさんけい》の事と拝察いたされ候。ふた昔ばかり前か、維新の際長岡藩士の窮状を『しがらみ』にてか拝見仕候。今は夢のやうに、ぼうつと覚え居候。また拝見をいたす
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