事を得ば幸に候。今朝思ひ出で候まゝ、匆々《そうそう》以上。七月十九日朝。

拝啓。一昨日は御書を給はり、辱く奉存《ぞんじたてまつり》候。其節御恵贈の朝鮮産西洋種|梨子《なし》、誠にやすらかにして美味、有難存候。彼の争議一件御筆にのせられ候由、以て当今社会の現況を知る事を得べく、楽しみ罷在《まかりあり》候。何卒《なにとぞ》御示下され度希上候。土山の下の終に、深山に佗《わび》しくくらし居り候老僧にかしづきゐる婦人の京の客の帰り行くをたゝずみて遥《はるか》に見送る心情、いかにも思ひやられ候。
林太郎君在職中遺業の一つがどふやら湮滅《いんめつ》せんとするありて、此頃後々迄もはつきり書きて遺したく、それぞれ調べ中に候。昨日も目黒の奥の方の又奥迄人を尋ねまゐり候。どこ迄行きてももとは荒野なりしが、町つづきになりて、ビルヂング様の建物も見え、草屋根の家などは一向見えず、いやに開けたものと呆《あき》れ申候。
千葉あたり田舎の家屋は昔に変らねど、人心のいやに青竹の手すり然と険悪にすれからしになりたるも心にくゝ覚え候。どこか秋の虫をきゝ、肱《ひじ》を枕にゆるりと午睡し得る所はなきかなぞ夢想せられ候。
貴詠ちと御ひまになり候はゞ御認め下され度、是《こ》れ又希上候。匆々不備。九月十二日、鶴所。
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 賀古氏と兄とは、大学生時代から五十余年にわたって、公私共に変らぬ親友なので、その官人生活の裏面には、いつも多大の配慮を得て、山県公その他へも推薦せられたものでした。その兄が逝《ゆ》いてからの賀古氏は、どれだけお寂しかったでしょう。晩年に主人や私へよくお便《たより》を下さいましたのも、以前にはないことでした。『冬柏《とうはく》』所載の消息なども、そうしたものを書いて自ら慰藉《いしゃ》していられたのではあるまいかと思いますと、お気の毒にもなって来ます。
 昭和六年一月一日、朝から元気で病院の医員たちの年賀を受けられましたが、午後書斎へはいられて、突然発病されたらしく、誰も臨終には間に合わなかったそうです。「己《おれ》は脳溢血《のういっけつ》で逝くのだ」と、いつもいっていられましたので、お望通りだったとはいえ、あまりにはかない終り方でした。兄が逝いてから八年、七十六歳だったのです。
 お墓は駒込|吉祥寺《きっしょうじ》で、山門を入って右側です。本郷にいます頃は近いものですから、庭の花を持っては、よくお参りしましたが、疎開以来遠くはなりますし、だんだん私も老年になりますので、お彼岸くらいにしかまいられません。
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   古い手紙

 兄の洋行されたのは明治十七年八月で、船はフランス船メンサレエ号というのです。ベルリンへ著《つ》かれたのは十月十一日でした。出立後家族の者は、ただ手紙の来るのばかりを待っていました。翌十八年の正月にカードを送られた時の私と弟との喜びは非常なものでした。ついぞそうした物は見かけませんでしたから。
 忙しかったでしょうに、よく手紙を下さいました。こちらからも度々出したものでした。「独逸《ドイツ》日記」というのに、「家書|到《いた》る」ということが、月に二、三回はきっと見えます。それが滞独中ずっと続いています。日記もよく附けていられました。
 その頃千住に佐藤|応渠《おうきょ》という人がいられたのに、お兄様は詩を見ておもらいになって、親しくなさいました。学者としてあがめられても、もともと漢方のお医者でしたから、時代後れで、質素なお暮しでした。私が稽古《けいこ》に通った関澄《せきずみ》桂子さんともお附合《つきあい》なのです。その佐藤翁が新年に私へ下すったお手紙があります。
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新禧《しんき》万祝、御歌いとをかしく、御出精のほど見えはべれ。加筆返上、其後御兄さまより御便りはありしや、いかゞ。あらば御聞せ下され。
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其まゝに千代の鏡と氷るなり
    結びあまりし今朝の薄氷《うすらひ》
大きみの千世の例《たとえ》と老がつむ
    心の根芹《ねぜり》もえやしつらん
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など、思ひ候まゝかいつけ上候。桂の君にもよろしく御伝《おつたえ》ねぎ上候。かしく。
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   おきみさま御もとへ[#地から3字上げ]元萇《げんちょう》
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別紙|憚《はばかり》ながら御とゞけねぎ上候。
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 元萇は翁の本名です。別紙というのは桂子さんへのお便でした。佐藤翁の手紙も写して独逸へ送りました。
 二月七日の「独逸日記」には、「朝家書至る。妹の歌に」として、
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こと国のいかなる鳥の音をきゝて
    立かへる春を君やしるらん
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と書留めてあります。
 前後しましたが、十
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