に、「書生の羊羹とは違いますよ」と答えられました。書生の羊羹というのは焼芋で、それが兄の好物なのでした。
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兄の手紙
主人が亡くなって、まだ心の落附かぬ内に、私の家には疎開、焼失、移転などと、次々にいろいろなことがあったので、何をどこへ遣ったか覚えてもおらず、何かと書附けた手帳なども見喪《みうし》なったような騒《さわぎ》ですから、分らぬ物も多いのです。最初から、これだけはと心懸けた品を、三つ四つの包に拵《こしら》えて、その頃はどこが安全ともいわれませんが、親戚《しんせき》にしっかりした鉄筋コンクリートの建築があるので、とにかくそこへ預けました。どうなっても不足はいわぬという約束です。
その五階の建物も、三階までは罹災《りさい》しました。後でその構内へ落された焼夷弾《しょういだん》を拾い集めたら、幾百とあったそうで、その殻が小山のように積んでありました。落ちた折の恐ろしさが想像せられます。預けた品は一階の隅の物置のような室に入れてあったので、幸い助かったといって、終戦後返されたのを喜びましたが、一箇だけ不足していました。二間続きの広い室で、床から天井までいろいろの物がぎっしり積上げてあったのですから、見えないのも無理はないと思いました。
けれども人間は勝手なもので、無事な品を喜ぶにつけても、「ほんとにあれは惜しかった。こちらの方ならそれほどでもないのに」などと、勝手をいっていました。
ところがその後その室を整理することになって、全部の品を持出した中に、こんな物があった、そちらのらしい、と寄越《よこ》されたのがそれなのでした。入れて置いた紙の箱は潰《つぶ》れ、上包《うわづつみ》は煤《すす》け破れて、見る影もありませんが、中の物は無事なので、天佑《てんゆう》とはこのこととばかりに嬉《うれ》しく思いました。
それを順々に拡げて見て、幾日かを過しました。人から贈られた書簡ばかりを集めて置いたので、古いところでは福羽美静《ふくばびせい》、税所敦子《さいしょあつこ》、小池直子、松《まつ》の門三艸子《とみさこ》、橘東世子《たちばなとせこ》、松波資之《まつなみすけゆき》、小出粲《こいでつばら》、中村秋香《なかむらしゅうこう》、賀古鶴所《かこつるど》、与謝野寛《よさのひろし》、同|晶子《あきこ》の方々のもの、現存の人でも皆二、三十年前のものばかりです。その中で私が一番大切に思うのは、兄が小倉や戦地から寄越された長い長い手紙です。小倉在勤は明治三十二年六月から三十五年三月まででしたから、随分古いものなのです。
それらの手紙を、どんなにか忙しい中から書いて下すったのだろうと思うと、当時の私の無遠慮と無智とが顧みられて、顔が赤らみます。その頃は主人の健康も勝《すぐ》れず、子供も四人いまして、前途のこと、経済上のこと、その他何かと心を苦しめていたのでした。思ってはならぬ、いってはならぬと承知していることまでも、子供らの寝静まった夜などに、書きに書いては送ったのでした。読む人が何と思うかなどということは考えもしませんかった。ただ兄に手紙を書くということが、私の慰安なのでした。その寂しさに甘えた心持だったのでしょう。
その頃は森の母も頻《しき》りに手紙を書かれたようでした。母は面白い人で、「私は字のお稽古《けいこ》をしないのだから」と、書いたのを決してお見せになりませんでした。小倉との手紙の往復の始ったばかりの頃でしょう。母に向って、「お兄さんは随分だと思うよ。私が送った手紙の仮名遣《かなづかい》などを、朱で直して寄越されたのでがっかりした」などと、笑いながらおっしゃいましたが、忽《たちま》ち上達なさいました。次の手紙は母|宛《あて》になっていますが、私のために書かれたものなので、母はすぐに団子坂から曙町まで持って来られて、「これはお前の教科書だよ」といって渡されたのでした。
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十日の御書状拝見|仕《つかまつり》候。庭の模様がへ、北村のおくりし朝顔の事など承《うけたまわり》候。おきみさんより同日の書状まゐり候。家事(姑《しゅうとめ》に仕へ子を育つるなど)のため何事(文芸など)も出来ぬよしかこち来《きたり》候。私なども同じ様なる考にて居りし時もありしが、これは少し間違かと存じ候。おきみさんの書状を見るごとに、何とかして道を学ぶといふことを始められたしと存《ぞんじ》候。道とは儒教でも仏教でも西洋の哲学でも好《よ》けれど、西洋の哲学などは宜しき師なき故、儒でも仏でもちと深きところを心得たる人をたづねて聴かれ度《たく》候。毎日曜午前位は子供を団子坂にあづけても往かるるならんと存候。少しこの方に意を用ゐられ候はば、人は何のために世にあり、何事をなして好《よ》きかといふことを考ふるやうにならるるならん。考へだに
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