に時が立ってしまった。もう誰か拾ったろうと残念がりました。半円札でしたか、一円札ですか。なぜ銭入に入れて行かなかったろう、せめて袂《たもと》にでも入れて行けばよいのにと、祖母が呟《つぶや》きました。
買物は池《いけ》の端《はた》へ出て、仲町《なかちょう》へ廻ってするのです。その仲町へ曲る辺に大きな玉子屋があって、そこの品がよいというので、いつも買います。買って帰って、そんな話をしているところへ次兄が顔を出して、「あの店では怪しい玉子はきっと皆|煎餅《せんべい》にするのでしょう」といったので、祖母は嫌《いや》な顔をなさいました。その店の玉子煎餅も名代《なだい》で、いつも買ってありました。
そこから広小路《ひろこうじ》へ出るところに、十三屋という櫛屋《くしや》があって、往来|端《ばた》に櫛の絵を画いた、低くて四角な行灯《あんどん》が出してありました。祖母が切髪を撫附《なでつ》けるのに、鼠歯《ねずみば》という、ごく歯の細かい櫛を使うので、それがあるかと聞きましたが、ありませんかった。黄楊《つげ》の木で造った品ばかりを商う、暗くて古風な店でした。
広小路へ出て右へ曲った右側に、千住の軽焼屋の店が出来たので、ついでに見に行きました。店にいた女の人は、同級生のお友達によく似ていましたから、姉さんか、それでなければおばさんだったでしょう。軽焼種というのを売るのです。それは牛皮のようなものですが、焼けば大きく脹《ふく》れるといいます。けれどもいつもそのままで食べました。珍しく大きな軽焼を白雪といいました。握り拳《こぶし》くらいあります。それもおいしいですけれど、本郷には大きな缶がないので、湿るからといって、人数だけ買って帰りました。
大学の構内を通り抜けて、赤門《あかもん》を出て左へ曲って、本郷の通りへ行きますと、三丁目の角に兼康《かねやす》という小間物《こまもの》の老舗《しにせ》があります。美しい髪飾のいろいろ並べてあるのを、客は代る代る取出させて見たりしています。そうした様子を、右手の横から、神農《しんのう》の薬草を持った招牌《かんばん》が見詰めているようです。その神農の白髪と、白髪の長いのとがお父様に似ているといったら、祖母に笑われました。
すぐ傍に岡野という菓子屋があります。これも老舗で、店の正面の神棚に、いつも灯明《とうみょう》がきらきらしています。その下の格子戸《こうしど》を透して、大勢の職人が忙し気に働いているのが見えます。そこで乾いた品を少し買います。祖母が千住へ行く時、弟への土産《みやげ》のためです。木の葉の麺麭《パン》といって、銀杏《いちょう》、紅葉《もみじ》、柿の葉などの形の乾いた麺麭に、砂糖が白く附けてあるのが弟の好物でした。
名高い粟餅屋《あわもちや》もすぐ傍です。先に歩いていられた祖母が振返って、「きょうはよかった。気を附けていても、近頃は休んでばかりいたのに。さあ、見て行きましょう」といわれます。「何ですか」という私の手を引っぱって、程好《ほどよ》いところに立たれます。広い店の奥まったところに、三人の職人がそれぞれ木鉢を前にしています。その木鉢は餡《あん》と胡麻《ごま》と黄粉《きなこ》とになっているので、奥にいるのが粟餅をよいほどにちぎっては、その三つの鉢へ投げるのです。調子づいて来ると、その早いこと、小鳥の落ちるようだといいましょうか、蝶《ちょう》の舞うようだといいましょうか、ひらひら落ちるのがちっとも間違いません。実に熟練したものです。感じ入って見詰めていますが、近所の人には珍しくもないようです。それは見馴れているからでしょう。沢山の註文《ちゅうもん》があると見えて、出来たのを入れた箱が積んであります。
「あれは園遊会などの余興にも出るのだよ。囃《はや》しにつれてするのを曲取《きょくどり》とかいうそうだよ。まあ御覧、上手《じょうず》に投げるではないか」と、祖母も感心していられます。ほんとに鮮かな手際《てぎわ》です。三人の職人もそれぞれに順よくまぶして、傍の箱に並べるのです。その出来立を買いましたら、別の人が傍の箱から取って包んでくれました。その晩はその話をして、特別おいしく頂きました。
なお少し行きますと、左手は春木座《はるきざ》のある横町です。それほど高級の芝居ではありませんから、上手の役者ばかり出るのではないでしょうが、いつも非常な繁昌《はんじょう》です。そこでは客の脱いで上った下駄を、帰りまでに綺麗に掃除して置いてくれるというので評判でした。
粟餅の立見《たちみ》などをして遅くなったので、急いで帰ります。その途中|藤村《ふじむら》で、父からの頼みの羊羹《ようかん》を買いました。藤村は大学の横手にあるよい菓子店です。下宿で兄がそれを見て、「この羊羹は上等だね」といわれたのに、祖母は得意そう
前へ
次へ
全73ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング