出していられました。井上通泰《いのうえみちやす》氏のお弟子《でし》で、井上氏が岡山へ赴任せられた頃からの熟知なのでしょう。それは井上氏の機関雑誌ともいうべきもので、同氏の「金葉集《きんようしゅう》講義」「南天荘歌話」「南天荘歌訓」「無名会選歌」、同氏選の「競点」などと、賑かなことで、それに常磐会選歌、次選歌、五人の選者の歌も出るのでした。
曙町の宅のお向いに箕作元八《みつくりげんぱち》氏がいられましたが、夫人の光子様は小出氏のお弟子で、常磐会ではよく当選なさるのでした。
「今月はいかがでした」などと、門口《かどぐち》でお目にかかるとお話をしました。兄から、「お前も小出さんへ伺って御覧」などといわれて、一、二度お訪ねしたことがありました。曙町の様子などを聞かれましたので、二本杉のお話をしましたら、「それは天狗《てんぐ》の寄合《よりあい》によい処ですね」といわれました。光子様も、「いつもその通りお口が悪いのです」とおっしゃいましたが、間もなくなくなっておしまいになりました。もと英照皇太后《えいしょうこうたいこう》宮にお仕えした方で、山県公の眷顧《けんこ》を受けられ、その詠み口がお気に入っていたと聞きました。後に和装の立派な歌集なども出たようでした。椿山荘《ちんざんそう》の七勝の歌などもあります。
選者の二人の点があると次点、三人なら当選です。四人は稀《まれ》で、五人はまずないようでした。兄も当選などはあまりありません。私などはもとよりです。山県公は音羽大助《おとわだいすけ》の名で加っていられました。後には古稀庵主《こきあんしゅ》としてあります。その侍女の吉田貞子という方もお詠みになるので、「今度はお前のはよかった」など、楽しそうにお話になるよしを兄が申しておりました。いつでしたか獣という題で、私の当選した歌に、
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恐しき獣なれども檻《おり》の内に
餌《え》をまつ見ればあはれなりけり
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「こんな歌を詠む人も選ぶ人もどうかと思うね」と兄からいわれました。
観潮楼歌会は一、二年で止み、常磐会は十幾年も続きましたが、『たづ園』を送ってもらいましたのは大正八年まででした。
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本郷界隈
大学鉄門前の下宿|上条《かみじょう》にいた頃は兄も若かったし、そこへ折々遊びに行くのを楽しみにしていた私もまだ小さいのでした。父は千住で開業医をしていられて、人出入はあるのですけれど、私は偏屈な性質で、心安くする人もなく、学校の同級生には、近くの西洋造りらしい屋敷に住んで派手に暮すお医者さんの娘と、土地で名代《なだい》の軽焼屋《かるやきや》の娘とがありましたが、その軽焼屋も大分離れているので、行ったことはありませんかった。ただ家で本を読んだり、裏庭で土いじりをするくらいのものですから、兄に附添って下宿にいられる祖母が、用事があって家へ来られた時に連れて行ってもらうのが楽しみで、祖母の来られるのが待たれました。
下宿ではいつも好んで鉄門の見える窓の際にいました。いろいろな人の出這入《ではいり》が珍しいのです。日蔭に植えた低い檜《ひのき》があるので、外からは見えません。首を伸ばせば時計台は真正面です。その時計は大きなもので、五尺あるとか聞きました。始めて行った時、頭の上でちょうど時を打つカーン、カーンの音を聞いて、珍しいあまりに大声を挙げて、「鳴りましたよ、鳴りましたよ」といって、「静かになさい」と叱《しか》られました。あまり大き過ぎるためか、時は正確ではなかったそうです。月に一回、裏から梯子《はしご》をかけて、登って行って捲《ま》くのだとか聞きました。
上条の下宿人は、大抵学生さんですから、昼間は皆留守で静かです。祖母は一心に裁縫していられます。次から次と千住から持って来られるので、仕事の絶えたことがありません。裁縫が切りになりますと、買物に連れて行って下さいます。私は大喜びで、お河童《かっぱ》の頭を振り振り附いて行きます。賄《まかない》の菜の外に、何か兄の口に合う物をというのですが、つい海苔《のり》、佃煮《つくだに》、玉子などということになるのでした。
下宿を出て右へ行くと、間もなく大学の境を離れて無縁坂です。坂の下り口の左側に小店や小家が並んでいる中に、綺麗な家の一軒あるのは妾宅《しょうたく》だということでした。化粧した美しい女が、いつも窓から外を眺めているという、学生たちの噂《うわさ》でした。或《ある》学生さんが買物をするとて、お札を剥出《むきだ》しに掴《つか》んで、そこの窓の方を見ぬようにして通り過ぎたのですが、気が附いたらその札がありません。人通りの少いところだから、その辺にきっとあるとは思うけれど、またその窓の前を探しながら通りたくないので、ぐずぐずしている間
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